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静岡県佐久間町

ダムと緑、そして人情の町 天竜川、天に昇る竜のように

町のシンボル佐久間ダム
高度成長のスタート台

 わが国最大と言われた佐久間ダムは昭和31年にできた。完成を祝って発売された記念切手を友人から一枚もらったが、それが社会人になるまで熱中することになる切手収集のきっかけとなった。当時、筆者は中学生になったばかりのころだった。

 切手のイメージがいまに残る、そのダムが目の前にある。天竜川のV字形渓谷をせき止める高さ155メートル、長さ291メートルの巨大な堰堤。その後、これを上回るダムは各地に造られてゆくことになるが、先駆けとなった佐久間ダムの名はいまもなお不滅である。

 近くにある「さくま電力館」をのぞいてみた。ダムの種類や発電の仕組みなどが模型や映像で分かりやすく紹介されていて、子供たちの社会見学には喜ばれそうな施設。しかし、この日はシーズンオフの平日とあって、ダムサイトもここも人影はまったく見られない。

 ダムの建設されてゆく記録映画は力強さにあふれ、見ていてもなかなかが興味深いものだった。アメリカから大型機材が導入され、わが国で初めて行われる大がかりな工事。ここで作られる電力は中部地方や関東地方に送られることになるが、それはまさにこれから始まろうとする高度成長の原動力となるものだった。

 湖畔には小公園が作られ、遊歩道「桧葉(ひば)の小径」もあった。しかし、冬枯れのこの時期は何を見ても殺風景だ。雪は高い山の頂きにわずかに残る程度だが、湖面を吹き抜ける風は冷たく、真昼だというのに底冷えのする寒さである。

 逃げるようにして車の人となり、今度は上流を走ってみることにした。天竜川はこのあたりで竜のようにくねり、満々と水をたたえて細長い佐久間湖を出現させている。あたりの渓谷美は県下でも指折りのものと言われており、桜の咲き始める春ごろからは多くの行楽客を引き付けるにちがいない。

 

訪ねたい、遺産保存館
山里の暮らしと文化

 佐久間町はダムをきっかけに1町3村が合併して誕生した町。町の中心部、JR飯田線の佐久間駅近くには発電所や周波数変換所があり、そこで働く人たちの社宅や寮なども建ち並んでいた。ダムとともに生きる町であることを、訪れた人に無言のうちに語りかけてくる。


町内を走り抜けるJR飯田線
町内を走り抜けるJR飯田線
 ダムで得るものもあれば、失ったものもあろう。そうでなくても戦後、社会はめまぐるしく変化した。ダムの見物をした帰り、途中にあった「さくま郷土遺産保存館」に立ち寄ってみることにした。

 館内は「山に生きる」をテーマに、民俗資料が五つに分類して展示されていた。「山を耕した人々」「天竜美林を育てた人々」「川に生きた人々」「ふる里の歳時記」「佐久間町のあけぼの」。並べられた民具などの一つ一つがかつての山の暮らしや文化などをしのばせてくれる。

 そんな一つに、猪などを追う「ヨオイ(夜追)小屋」が復元されていた。村人たちは畑に作られたこの粗末な小屋で一晩中、石油カンなどを打ち鳴らしながら「ほーい、ほい」と叫び続けたそうだ。そう言えば、ここへ来る天竜川沿いの樹林で野猿の群れを見かけたばかりだった。

 10月最初の亥の日にはイノコサマとも呼ばれる「イノコマツリ」も行われていたそうだ。この日は山で猪が特に暴れ回り、人々を困らせたとか。町へ入って「しし料理」の看板をよく見かけたが、旅人にとって冬場はうれしい猪鍋のシーズンでもある。

 続いて列車の博物館「佐久間レールパーク」を見た。中部天竜駅の構内には鉄道史を彩った電気機関車や客車などが並べられており、鉄道ファンならずともなつかしい施設だ。夕日にせきたてられるようにして、さらに七福神めぐりのできるという仏法山川合院にも足を延ばしたが、佐久間町はダムだけの町ではなく、見るべきものはまだまだ他にもたくさんあるようだった。

 

村は民話と伝説の宝庫
ホウジ峠には何がある?

 この町のキャッチフレーズは「歴史と民話の郷」。町内を散策していると、その地ゆかりの民話を紹介した立て札にあちこちで出会うこととなる。役場と一体になった文化施設はその名も「歴史と民話の郷会館」と名付けられていた。

 そんな中で佐久間からホウジ峠へ抜ける街道が民話と伝説の宝庫だとか。道は舗装されてはいるものの、右に左にと激しく折れ曲がる山道だった。周りにはうっそうと木々が茂り、秘境に踏み込むような心境にもなってくる。

 しばらく行くと龍王ごんげん遊歩道があった。機織渕遊歩道もあった。立て札に書かれた民話にひかれるようにして遊歩道を谷底へ下ってゆくと、ともに深山の中に清流と渕と滝の織りなす幽玄の世界があった。

 二本杉峠を経て、さらに奥のホウジ峠へ。一風変わった「ホウジ」の名称に興味を持ってやってきたが、それは「北条」のなまったものであることを、たかわらに建てられた石碑に教えられた。この峠には江戸時代末期の農家を移築して「民俗文化伝承館」が造られている。

 館の公開は土曜日と日曜日、それに祝祭日のみで、この日はあいにく中を見ることはできなかった。民家は次に訪ねることになる浦川集落から持ってきたものだそうだが、馬と同居する家に住む人のやさしさすら感じられてくる。公開日には囲炉裏を囲んで村の語り部たちがふるさとの昔話を聞かせてくれたり、地そばなど郷土料理に舌つづみを打つこともできるそうだ。

 この峠へ来て中央構造線とも出会うことになった。峠は大断層の上にあり、民家前の広場には岩石の標本も展示されていた。そう言えば諏訪湖から天竜川の東側を沿うようにして豊川へ抜けていたことを思い出したが、この町はその通路に位置していたことになる。

 

栄三郎、この村に眠る
ほのぼの、村人たちの心

  旅の夜風に疲れしこの身  裏鹿の里に起き伏しすれば
  山家の人の身にしむなさけ  こころせつない栄三郎よ

 浦川(裏鹿)集落は天竜川の支流、大千瀬川(おおちせがわ)沿いにある。ここが民俗芸能、浦川歌舞伎のふるさと。名門音羽屋4代目、尾上栄三郎はこの村で亡くなっており、毎年9月の下旬ごろ、追善公演が行われているそうである。

 栄三郎は安政5年(1858)江戸が大火で焼けたため、一座を組んで地方巡業の旅に出ることにした。信州の飯田まで来たとき病にかかり、当時名医の誉れ高かったこの村の三輪見龍を頼ってきた。ここで見龍や村人たちの献身的な看病を受けて一時は快方に向かうが、やがて不治の病であることを悟るようになる。

 彼は今生の思い出と村人たちへのお礼に、病を押して浦川旭座の舞台に立った。演ずるは得意の忠臣蔵五段目、山崎街道星野勘平。気力を振り絞って熱演する最中、舞台の上で帰らぬ人となってしまったのである。

 遺言により亡骸は平尾峠に埋葬された。浦川駅からその峠までウォーキングコースができていた。田畑を抜け杉林の中を進んでゆくと小高い峠に塚が築かれ、その周りには「いつかは江戸へ」と願った栄三郎の悲願をくみ取って彼岸花が植えられていた。

 この塚は病気平癒、芸能上達の守護とあがめられ、いまでも参拝する人が多いとか。峠からは浦川集落が手に取るように眺められた。このエピソードを知らなかったら気付かずに通り過ぎてしまいうそうな山里だったが、帰りがけに心温まる旅のいいみやげ話ができた。

 

[情報]佐久間町役場
〒431-3901 静岡県磐田郡佐久間町佐久間429-1
TEL:0539-65-1651

 

 

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