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岐阜県上石津町

国道に沿うように島津氏敗走の足跡 都会の人気呼ぶ、牧田川の峡谷・多良峡

おだやかに牧田川の流れ
行楽の名所「多良峡」

 「ここはほんとにいいとこで、ちょくちょく遊びにきますよ。静かだし、水はきれいだし。それに浅瀬ばかりなので子供を安心して遊ばせておけますしねえ」

 名古屋から来たという一家が川原でバーベキューを楽しんでいた。2人の子供はもう食べ飽きたのか、川へ入って遊んでいる。そんな姿を目で追いながら、ご主人はうまそうにビールを傾けていた。

 町内を流れる清流牧田川。一之瀬地区の上流部は両側から山が迫り、多良峡と呼ばれる景勝地を作り出している。しかし、その川は石ころに埋もれて意外なほど浅く、自動車のまま横断して対岸に陣取っているグループもある。


風光明媚で知られる多良峡
風光明媚で知られる多良峡
 峡谷美はおよそ2、3キロほど続く。春は新緑、秋は紅葉、雪化粧した冬の景色もまた格別とか。四季折々に変化する様をとらえ、「一之瀬の嵐山」と評する人もあるほどだ。

 少し上流へ車で移動すると、川沿いにバンガロー村があった。暑かった夏も終わり、いまはひっそりとしている。こちらの川には淵や滝もあり、先ほどのものとはまた違った様相を見せていた。

 かたわらに「岐阜県の名水・多良峡」の看板。ここは飲む水ではなく、川そのものの水が周囲の景観とあいまって“名水”に指定されている。川にはアユやアマゴ、ウグイなども多いらしく、ところどころで釣り糸をたれる太公望の姿も見受けられた。

 

島津隊、敵中に活路を開く
敗走の史跡、町のあちこちに

 時は慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の合戦。敗色濃厚と見た西軍の薩摩は戦線離脱を決意、敵陣を突破する強行策に出た。まさに死中に活を求めたわけだが、町を訪れてみるとその足跡があちこちに残されていた。

 町の北端、関ヶ原に近い烏頭坂には殿(しんがり)を務めた島津豊久「戦死処」の碑があった。豊久は追いすがる敵にわずか10数騎で立ち向かったと伝えられている。つい先ほど「老後の思い出に切り込み、いさぎよく討ち死にしようぞ」とはやる大将・義弘に対し、「御家のためにもそれだけはなりませぬ」と必死の思いで翻意させたばかりだった。

 少し進むと門前、一色、上野の集落に出るが、このあたりが家老・阿多盛淳の奮戦したところ。盛淳は追撃の手を緩めない敵に義弘から賜った陣羽織をまとい、軍扇を振り上げながら「我こそは島津兵庫入道なり」と名乗り、戦いを挑んだのだった。近くの琳光寺にはその墓があり、就業改善センターの庭には供養碑も立てられていた。

 牧田川に沿う国道365号をさらに南進する。町を縦貫する唯一のメインロードで、かつての勢州街道はこれに着かず離れず通っていた。その道を生き延びた豊久らの兵が命からがら敗走していったはずである。

 途中、樫原集落の林の中に“島津塚”と呼ばれる豊久の墓があった。地元の人の話によると、豊久は烏頭坂の戦いで重傷を負いながらも追撃を逃れたが、足手まといになることを憂いてここで自刃して果てたという。すぐそばの瑠璃光寺には豊久の位牌も祭られているとのことだった。

 豊久、盛淳らの奮戦で本隊は養老山の東へ逃げ延び、再び上石津にはいって時、時山から多賀(滋賀県)へ抜ける江州街道を大坂へと落ちて行く。島津隊はこの敵中突破で1000余人のうち実に9割近くを失ったとも伝えられ、眼前ののどかな光景とは裏腹に想像を絶する悲惨な戦いとなった。

 上石津はこうして島津ゆかりの地となった。毎年夏になると鹿児島から戦跡踏査隊が陣羽織を身にまとい、ほら貝を吹き鳴らしながら敗進の道をたどるとか。敗者に寄せる町の人たちの思いには暖かなものが感じられた。

 

平家落人の“隠れ里”時山へ
逃げる薩摩軍に祖先がだぶる?

 島津隊が敗走した時山集落は町の南端、どん詰まりのようなところだった。両側から山が迫り、牧田川が一筋の谷川に変わっていく。突然、目の前に現れた家々は斜面にできたわずかばかりの地に、折り重なるようにして建てられていた。

 ここは壇ノ浦で破れた平家の落人が隠れ住んだ山里でもある。八幡神社の秋祭りには「時山踊り」が夜遅くまで踊られるそうだが、それは平家の一族が地元民と融和するために始めたものだとか。薩摩の一行を助けて峠道を多賀へ逃がしたのも、その姿に自分たちのかつての祖先を思い浮かべたのだろうか。

 浪の屋島を遁れきて 薪苅るてふ深山辺に
 烏帽子かりぎぬ脱ぎ打ち捨てて 今は美濃路の杣家かな

 歌い継がれてきた「時山小唄」には哀愁がこもる。彼らはこの村にとけ込み、木こりや炭焼きに身を変えた。隔絶された山村では製炭が生計の糧で、いまもところどころで炭焼き小屋を見かけた。

 「ここの炭はのう、時山炭ちゅうて昔から有名やった。山が深いんで木もかとて、よい炭が焼けるんや。いまでは炭焼くうち(家)も5、6軒とすくのうなったが、近ごろは炭のよさが見直されて入り用が少し増えてきたのん。そんでも若い人はもう見向きもせんけんどのう」

 川添勝さんはノコギリを持つ手を休め、村の近況を話して下さった。一時期、会社勤めをしたこともあったそうだが、炭焼きは学校を出てすぐに始めたとか。川添さんは時山炭のよさを語り、「かつては人気の秘密を探ろうと、婿として入村する者もいたほど」とのエピソードも披露されるのだった。

 しかし、こうした秘境が逆に観光地として注目され始めた。村内には小屋に「忠盛館」や「清盛館」「重盛館」など、平家ゆかりの名を付けたバンガロー村もあった。自然や人情、山の幸などを求め、訪れるハイカーや釣り人も結構多くなってきたそうである。

 

歌声よ響け、昭和音楽村
懐かしいフォーク&ニューミュージック

 あなたは江口夜詩という人をご存じだろうか。実は筆者もここへ来るまで知らなかった。が、「憧れのハワイ航路」「赤いランプの終列車」と言えば、もうリズミカルなメロディまでが脳裏に浮かんでくるのでは。

 そう、作曲家・江口夜詩は明治36年にこの町で生まれ、昭和53年、75歳で亡くなるまでに4000曲以上の歌を残している。「急げ幌馬車」「夕日は落ちて」「月月火水木金金」「長崎のザボン売り」「瓢箪ブギ」。夜詩は“大衆音楽の父”とも言われ、古賀政男とヒット曲を競い合うほどの大人物だった。

 ホルンをイメージして建てられたという江口夜詩記念館。音楽専用ホールと展示コーナーの二つから成っており、後者には夜詩直筆の楽譜をはじめ遺品や写真、レコード、ポスターなどが細々と並べられていた。そのどれもが懐かしく、そして興味深いものだった。

 記念館の隣にはこれまた真新しいFN音楽館があった。こちらは6、70年代を中心にもてはやされた、フォークとニューミュージックのミュージアム。高石ともやがいる、吉田拓郎がいる、八神純子や五輪真弓、中島みゆきもいた。

 戦前から戦後にかけて大活躍した江口夜詩と若者の心をとらえて離さなかったフォーク&ニューミュージック。町ではこの二つの施設を核に、その名も「日本昭和音楽村」をオープンさせた。そして、ここを舞台に音楽による町おこしにも取り組んでおり、音楽ホールや野外ステージではコンサートなど様々な催し物も開かれているという。

 一通り見終えて外に出ると、目の前に美しい湖が広がっていた。施設は大自然に包み込まれるようにして造られており、周辺ではボートやサイクリング、バードウオッチングなども楽しめる。音楽をキーワードにしたこの村に新しい期待がかけられている。

 

[情報]上石津町役場
〒503-1622 岐阜県養老郡上石津町大字上原1380
TEL:0584-45-3111

 

 

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