マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
三重県美里村 |
青山高原の入口、美里村 大自然と人情の息づく、文字どおり美しい里
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上方と伊勢とを結ぶ村
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長野地区の町並み |
役場へパンフレットをもらいに立ち寄ったさい、係の人からこう教えられていた。そのとき「昔の面影の残る場所は?」と尋ねてみたが、「らしいところは、あるにはあるのですが……」と口を濁されていた。なるほど、いまとなってはかつての風情を見つけ出すのは難しいようだ。
しかし、江戸時代は宿場としてにぎわい、旅篭や茶屋も軒を並べていたとか。それというのも、このあたりから勾配が急になり、つづら折りの山道が続いた。長野峠を越えてから休むか、休んでから越えるか。旅人たちは眼前の難所に、さぞかし思案に暮れたことだろう。
その長野峠もいまではトンネルで簡単に越えられる。明治にできた最初のトンネルは〃神業〃とさえ言われ、当時の県令(県知事)は完成を祝って「人間のわざを超越した工事であって、本来は天の仕事である」旨の揮毫を残しているそうだ。現在のトンネルもかなりの年代物だが、最初のそれはこれよりももっと上の方に造られていたはずである。
遠い昔、この街道は伊勢神宮に奉祀する斎王も通った。その一人に五百野姫(いおのひめ)があり、務めを終えて都へ帰る途中、病にかかってここで亡くなっている。その名も五百野の地には五百野皇女の塚も造られていた。
五百野姫は12代景行天皇の第七皇女で、日本武尊の姉に当たる。名は久須姫とも呼ばれ、石碑には「景行天皇皇女久須姫命之古墳」の文字があった。この地は古くから神宮の御廚(みくりや・神領)とされ、近くを流れる長野川で捕らえた魚を献上していたとの伝説もあるそうだ。
こんな話を聞かされると、何気ない景色までが新鮮に見えてくる。あたりは低い山々に囲まれた盆地で、差し込む日差しまでがやさしい。農道のあちこちではタンポポが季節はずれの花を咲かせているのだった。
背後の小山の一つに、白い鳥居が遠望できた。すると、あれが五百野姫を祭る高宮神社か。その鳥居をくぐるとうっそうと茂る森があり、苔むした石段がその中をどこまでも続いていた。
姫を葬った陵墓があって、それを祭る神社まであれば、この伝承を素直に信じたくなる。が、その一方では五百野の地名にちなんで生まれた、単なる作り話というシビアな見方もあるらしい。地名が先にあったのか、姫の故事から地名が付いたのか。
まあ、そんな詮索はどうでもいい。一介の旅人には五百野姫をめぐるエピソードはロマンをかき立ててくれる。ほのぼのとしたあたりの光景が伝説を語る舞台にふさわしいようにも思えてくるのだった。
2日目、長野城跡に登ってみることにした。ふもとで村人に道を尋ねると「行くのはなかなか大変ですよ」とおどされた。なーに、こちらはハイキング気分、それなりの覚悟はできている。
が、山道に入って早々、急に道がなくなってしまった。かまわず斜面をよじ登っていったが、これはどう考えてみてもおかしい。そういえば「右へ行け」と言われていたのを思い出し、いま来た道を引き返すことにした。
しばらくして「長野城跡」の案内板に出会い、ほっと胸をなぜ下ろした。が、想像していたよりもはるかに距離があり、山頂にたどり着くのに1時間以上もかかってしまった。本来ならここから伊勢平野や伊勢湾を見下ろせるところだが、時間の経過とともに悪化する空模様に、下界はぼんやりとかすんでしまっている。
山頂は標高540メートルとあり、そこが天守台の設けられた場所だった。一段と高い平坦な地には「史跡長野氏城跡」と彫られた石柱が立てられていた。ここの遺構は南北朝期からの山城として注目され、昭和57年には国の史跡にも指定されている。
城主の長野氏はこの地方に勢力を延ばし、伊勢の守護仁木氏や国司北畠氏らと合戦を繰り返してきた。長野氏の祖は『曽我物語』で有名な曽我兄弟の仇役、工藤祐経(すけつね)だとか。その孫がこの地に来て、以降16代330余年にわたって居城することになるが、天正4年(1576)、信長の伊勢攻めにあい長い歴史の幕を閉じている。
昨日見た家所城跡もこの一族の支配する城だった。こちらとは違い低い丘陵にあったが、それでも土塁や堀跡などはがよく残されていた。城にまつわる歴史に思いをはせながら、人知れず眠る山城を訪ね歩くのもなかなかいいものである。
美里村はお地蔵さんのふるさと--そう言ってもよいほど、村のあちこちでよく見かけた。そんなせいもあるのかどうか、出会った人たちはみな親切でやさしかった。
七体地蔵は案内して下さる人がいなかったら、まず分からないようなところにあった。あぜ道を通り、小さな林を抜けたとたん、美しい河畔に出た。穴倉川は蛇行して所々に青く澄んだ淵を作り、その中で一番大きな淵は「夫婦淵」と呼ばれているそうだ。
いくら探しても見つからなかった七体地蔵はその淵の山側の石に彫られた磨崖仏(まがいぶつ)だった。お地蔵さんが横一列に4体をひとまとめにされ、残る3体はそれぞれ間隔をやや置いて浮き彫りにされていた。対岸にはこれと同じような六体地蔵もあるとか。
目無地蔵は経ケ峰の山麓にあった。こちらは何体ものお地蔵さんが集まっており、夜には酒盛りでもするのではないかと思えたほど。お供えの一升ビンにそんな夢想をしてしまったが、山の中とはいうものの、それほどにぎやかな地蔵群だった。
目無地蔵のいわれには先ほど訪れた長野城がからんでくる。密使が某所に赴いた帰り、旅の疲れから失明して、この地で息絶えた。直前、通りかかった村人に「わが霊はここに留まり、世人の眼病を直したい」と言い残したといい、それがもととなって作られたそうだ。
お地蔵さんの多くは現世利益をうたい、それだけに最も庶民的な仏様でもある。村内には長生きのできる「延命地蔵」や腰痛に効く「腰折地蔵」、せきを治してくれる「せき地蔵」、いぼを落とす「いぼ地蔵」などもある。静かな山里の暮らしはお地蔵さんとともにあるかのようにも見えてくきた。
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