マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
愛知県立田村 |
花も実もあるレンコンの村 大地に根を下ろした近郊農村
|
かつては大きな輪中の村
|
水郷風景の見られるのどかな立った村 |
このような土地柄だから、村内には海抜ゼロメートル前後の平坦な地が広がっている。そこでは全国でも屈指のレンコンをはじめ、フキやイチゴなどの栽培も盛ん。役場でもらったパンフレットには「都市化の波に翻弄(ほうろう)されることなく、大地にしっかり根を張り、本当の豊かさを追い求める」と農業立村の精神が高らかに歌い上げられていた。
なるほど、車を走らせていると温室がやけに目につく。近郊農村の特質を生かして野菜や花卉(かき)などの施設園芸もなかなか活発なようだ。イチゴを出荷中の人がいたので、車をとめてみることにした。
「見ての通り、この村ではハウス栽培も盛んだよ。イチゴの出荷も伸びてきているし、中には牧畜に取り組んでいる人もいる。みんな知恵を絞って一生懸命だよ。そういえば、最近では村の特産品をドライバーなどに直接販売しようと、道路沿いに売り場を持とうという話も出てきているほど」
立田村は田んぼで生計を立てる村ということか。どこへ行っても蓮田が広がっている。周りの風景は他の近郊農村とは違い、どことなくのどかで牧歌的である。
蓮は泥田に根を張りながら、上品な美しい花を咲かせる。だからこそ極楽浄土を飾るにふさわしい花とされ、仏様も蓮のうてなを好まれるのだろう。平成4年、村ではこの花をPRしようと32種類の蓮を集めて「立田赤蓮保存田」を役場近くにオープンさせたが、その開花シーズンには朝早くから多くのファンが詰めかけるそうだ。
赤蓮は天保年間(1830−1844)に戸倉集落の陽南寺住職・平野龍天という人によって初めてこの村へ持ち込まれた。彼は近江へ旅行した折、そこで見た蓮の花のあまりの美しさに感動し、その根を門前の田んぼに植えたのだった。これがもととなってレンコン村となるわけだが、赤蓮のレンコンは「戸倉レンコン」とか「立田赤レンコン」の名でいまも人気が高いそうだ。
その蓮も冬場のいまは枯れ果て、蓮田とは思えない殺風景なもの。しかし、農閑期とも重なるこの時期が絶好の収穫期でもある。折しもあちこちの田んぼにはパワーショベルが持ち込まれ、農家の人たちはレンコン掘りに忙しそうだった。
そのうちの1人に話を聞かせてもらうことにした。ご夫婦で仲良く仕事中といったところ。かたわらのカゴの中には1メートル以上にも連なった立派なレンコンがいっぱい入れられている。
「あれで表面の土をけずり取り、あとは備中でていねいに掘ってゆくわけよ。根の生え具合を読んでやらなきゃならんもんで、これでいてなかなか難しいよ。どれくらいの田んぼがあるかって? うちは1町足らずだけど、多いところは2町を越すとこもあるよ」
「レンコンを作るばっかりではないよ。奥さん方が中心になって、それを使った料理の開発にも取り組んどる。ほれ、あっちに農協があるから、いっぺん行ってみるとええわ。ええっ、これがレンコン?と驚くような、いろんな食べ方があって面白いに」
「掘ってみるか」と言われたが、難しそうでもあったので遠慮した。それよりも、先ほど話に出た「塩害」を確かめてみたくなった。こんなところにまで海水が来るのか、木曽川の左岸堤防の上に立つと、手前にあるかつての蓮田にはヨシやセイタカアワダチソウがわがもの顔にはびこっていた。
木曽川に架かる立田大橋を渡り、船頭平閘門(こうもん)のある下流部へ南下することにした。木曽、長良、揖斐の三川はこのあたりに集まり、川は網の目のように乱れていた。明治になってオランダ人技師、ヨハネス・デ・レーケの指導で三つの川は分離されることになるが、閘門は長良川と木曽川とを行き来するために造られた船の通り道である。
閘門に通じる水路は釣り糸をたらす人たちでにぎわっていた。うまい具合に閘門や土手で北風がさえぎられている。寒い冬でもここだけは暖かな日差しを浴びており、釣りを楽しむには絶好の場所のようだ。
閘門の南側は河川公園としてきれいに整備されていた。園内の広場にはデ・レーケの銅像も建てられている。彼は明治6年、明治新政府に招かれて治水に取り組むことになるが、30年間滞在して木曽三川や淀川、吉野川などの河川の改修、長崎港や横浜港などの港湾計画に大きな足跡を残すことになる。
園内には「木曽川文庫」と名付けられた資料館兼図書館もあった。展示コーナーには宝暦治水や明治期の改修工事の資料などが並べられ、水と闘ってきた人々の歴史や暮らしをしのばせてくれる。展示品の中にはデ・レーケ自筆の設計図など、興味深いものもたくさん並べられていた。
ここの目玉は先ほど見てきた船頭平閘門の大きな模型か。水門で水を調節しながら、船を通過させる仕組みを、模型で再現してくれている。父親に連れられた小学生の兄弟が目を丸くして、船の進んでゆく様子を興味深げに見つめていた。
この木曽川文庫はデ・レーケが改修に着手した年から数え、ちょうど100年目に当たる昭和62年に開設されたとか。図書コーナーも市町村史や郷土史、治水や災害、さらには地理、自然などの関係図書がよくそろえられており、木曽三川を知るためのユニークな施設となっている様子。初めてここを訪れたが、これはもっと知られてもよいところだ。
今度は一転、左岸の上流部へ。そこには葛木の渡しがある。木曽川にはかつて多くの渡しがあったそうだが、いまに残るのはここと塩田(八開村)、中野(尾西市)の三つだけだとか。
堤防上に建坪わずか1坪ほどの小さな小屋が建ち、そのわきに「県営無料渡船 愛知県」と書かれた標注が。中をのぞくと2人の船頭さんが畳に座って待機されていた。
「こうして待つのが仕事だよ。昔は向こう岸に渡るにはこれだけが頼りだったけど、橋ができた今ではもっぱら観光用にやっているようなもの。客は日によって違うが、なかには全然ない日もあるよ」
「渡船組合というのが作られていて、15人ほどで代わる代わる面倒をみている。運航は日の出から日没まで。ここにいると1日がよけい長く感じられてくるよ」
居合わせたのは船頭さんの大橋利弘さんと加藤元さん。「わしは手伝い役だけど、父親もずっとこの仕事をしていた」と加藤さん。よもやま話に花を咲かせながら、こうして過ごしているのも、案外悪くはないそうだ。
対岸には松林が逆光の中で黒いシルエットを見せ、その向こうには養老山脈がどっしり腰をすえていた。デ・レーケによって改修された大河は立田村の中をとうとうと流れている。そして、目の前の船着き場には1艘の小船がいつ訪れるともしれない客を待ち続けていた。
いつしか日も西に傾き始めた。大橋さんの言っておられた「今日のような日はここから見る夕焼けがきれいだぞ」という言葉が実感できそう。名古屋の近郊にありながら、この村では時間までもゆったりと流れていた。
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|