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長野県平谷村

道行くドライバーの足をとめたい 温泉で夢を掘り当てた小さな村

平谷に残る宿場のかすかな面影
中馬が活躍した“塩の道”

 街道散歩を趣味とする知人が言っていた。「真っ直ぐの道は新しい道と思ってまず間違いない。旧道は不必要とも思えるほど曲がりくねっている」と。何気ない一言だったが、これはなかなかの至言だ。

 信州の平谷は塩尻と三河とを結ぶ、かつての“伊奈路”三州街道の宿場町。役場のある中心部の集落内でも、道は右に左とにゆるやかなカーブを描きながら続いていた。町並みに昔の姿は見られないが、それでも道の脇に馬頭観音が祭られていたり、あるいはまた、何軒かの民宿の看板を見かけられた。

 新しい道ができるまでは、この曲がりくねった細い道が国道153号だった。名古屋で言う、いわゆる飯田街道だ。現在のそれは集落を二つに分けるかのように、すぐ西側を並行して走っているのだった。

 橋のたもとに新しい造りの酒屋さんがあった。うら若い奥様は「うちも昔は宿屋でした」と語り、「ここは小さな村ですけど交通の要所。東西を結ぶ国道418号との交差点でもあるんですよ」と教えて下さった。すぐ近くに村でただ一つの信号機があった。

 街道は中馬による物資の輸送でにぎわい、その代表的なものが塩だったことから“塩の道”とも呼ばれていた。418号の脇には馬子たちが馬を引き連れて歩く、のどかな風情の巨大な壁画が作られていた。そしてまた、この街道は善光寺や諏訪大社、あるいは秋葉神社や伊勢神宮などにも通じる“信仰の道”でもあったわけだ。

 平谷村は矢作川上流の、狭い盆地に開けた村。長野県で一番小さな自治体だそうで、人口はついに600人を切ってしまったとか。それだけに村当局は観光開発にも力を入れており、スキー場やゴルフ場などでお馴染みの人も多いのではなかろうか。

 

南部の要害、滝之沢城と関所
武田軍、信長の前にあえなく落城

 村はこの旧道を「伊奈中馬街道・歴史の道」として守っているようだ。馬頭観音の集められた脇にはその旨を記した木柱も立てられていた。平谷の集落と別れを告げ、草むした街道をさらに奥へと進んだ。


関所跡にある木地師の墓
関所跡にある木地師の墓
 やがて「とっばせ関所跡」に出た。「とっばせ」とは「突出した川瀬」の意味だそうで、武田信玄によってここに最初の関所が設けられている。関所跡には川に張り出すようにしてできた広場が残るだけだったが、その川べりには木地師の墓が数基並んであった。

 解説板によると、このあたりは滝之沢城の築かれたところでもあるとか。柳川沿いの東西約1キロにわたる山麓には砦や柵などが馬蹄型に造られ、「南部の要害」とまで言われていた。この城が歴史の舞台に登場するのは信玄の子、勝頼のいた天正10年(1582)のことだ。

 天下統一の総仕上げを急ぐ信長は、ここ平谷へも容赦ない攻撃を仕掛けてきた。城を守る下条信氏は寡兵ながら勇敢に立ちはだかったが、同族の下条氏長の寝返りにあってあえなく敗退している。解説板には織田軍を馬蹄型の中で包み込むようにした武田軍の陣容が図示され、その堅固な守りのほどがしのばれてくる。

 「天正10年といえば本能寺の変のあった年ではないか。まるで死に馬にけられたようなもの……」

 文章を読み終えて、ふとそんなことを思った。いつもは信長側から見ているはずなのに、こちらへ旅するとなぜか武田側の目になってしまっている。昨日、村の入口にあった赤坂稲荷で「勝頼公腰掛け石」を見たが、あのときも7年前に起きた長篠の合戦に敗れて逃げ帰る姿を思い浮かべ、思わず同情してしまったものである。

 関所跡を過ぎたところに、10軒ほどの集落があった。民宿の看板が掲げられているところを見ると、こちらもかつては中馬たちの利用した宿場の一つだったのだろう。塗装もはげ落ちて錆び付いた「国道153ROUTE」の道路標識が妙に印象に残った。

 

湯・食・泊、三位一体、絶妙の施設
もてもて温泉「ひまわりの湯」

 村一番の人気スポットが国道153号脇にある信州平谷温泉「ひまわりの湯」。同じ敷地内に「道の駅」と宿泊施設「人材交流センター」も併設されていた。今日はこのセンターに泊まることにしており、温泉三昧の一夜となりそうである。

 早々と宿に入り、温泉に飛び込む。南信州ではあちこちにこうした温泉が誕生しているが、ここの露天風呂は広々としていて、実に気持ちいい。駐車場が利用者でいっぱいだったのも、何だか分かるような気がしてきた。

 館内に設けられた休憩室も、ひと風呂浴びた人たちで大にぎわい。隣り合わせた男性は飯田へ週2日荷物を運んでいるそうだが、「この日の来るのを楽しみにしている」と言って笑っていた。帰りがけにフロントで利用状況などを尋ねると「1日平均約1000人、年間にして約36万人。湧出量も多く、37、3度と温度も高い」とのこと。そして付け加えられた「ありがたいことです」の一言に実感がこもっていた。

 村が自らの手で宿泊施設を造るとなると、民宿をしている人たちから反対はなかったのか。ときどき山里で場違いとも言えるフランス料理店などを見かけたりするが、その理由を聞くと民間と同じものはできないためらしい。それがこの村では立派な宿泊施設を建て、温泉に併設されたレストランでは、これまた郷土料理を売り物にしている。

 「交流センターは単なる宿泊施設ではなく、その名の通り交流を目的にして造られたものです。またレストランにしても、味どころとして地元ならではのメニューを提供するように心掛けています。これらの施設が人気を呼び、 利用者が増えれば村全体にとってもいいこと。みなさんの理解と協力で生まれました」

 センターは予約でいっぱいの日も多いとか。スキーを楽しんだ人たちにとっても、このお湯と宿はありがたいにちがいない。レストランでおいしい料理に舌鼓を打った後、また温泉へと足が向かうのだった。

 

リゾートへ、小さな村のかける夢
バラグライダーのメッカ・高嶺山

 一夜明けると、粉雪が舞っていた。冬の信州だから雪もまたいいではないか。そう腹に決めると、ゆっくりした朝食をとり、またまた温泉に。

 時間の経過とともに、その雪もやんだ。平谷湖はユニークな天然のスケートリンクだが、さすがに滑っている人は一人もいなかった。国道153号脇には“雪柳”とも言われるコゴメヤナギの老樹があり、樹齢500年とかで県の天然記念物にも指定されていた。

 その国道そばにある見晴らしのきく高嶺山に登ることにした。ここはパラグライダーのメッカでもある。筆者の友人に50を過ぎてからこれにはまった人がおり、彼は若者たちにまじってよくこの山まで来るそうだ。だから高嶺山の名前も「ひまわりの湯」も、その口からしばしば聞かされていた。

 途中、積雪で身の危険を感じた。車を捨てて足で登ることにしたが、30分ほど歩いてこれもあきらめざるを得なかった。それでも、もう結構高いところまで来ている。

 友人の話によると、頂上からは遠く南アルプスや伊勢湾までも望めるとか。すぐ目の前にある高い山が、信玄ののろし台にもされたという蛇峠山か。それに代わっていまは頂上に、テレビのアンテナやサーチライトなどが建てられているのだった。

 村では高嶺山を21世紀の顔にしたい考えのようだ。すでに舗装された道路が頂上までできており、そこも公園化されて展望舎などの施設もあるらしい。そうなると平谷村は名古屋から来るにはますます手ごろな、信州のリゾート地となってゆくかもしれない。

 

[情報]平谷村役場
〒395-0601 長野県下伊那郡平谷村1057
TEL:0265-48-2211

 

 

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