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愛知県稲沢町

尾張の“首都”国府宮のあった町 歴史に彩られた町、いまはベッドタウンに


500年続いた都、大地に眠る
匡衡と衛門、ロマンスの地

 稲沢はかつて尾張の“首都”であった。大化の改新後の律令時代には国司の政務をつかさどる役所「国衙(こくが)」が置かれ、室町時代になると織田氏が入国して下津(おりづ)に城を構えた。やがて“首都”は清洲へ、さらには名古屋へと南下してゆくが、その振り出しの地となったのが稲沢であった。

 国衙は国府宮のある一帯に広がっていた。国府宮は尾張の総社とされ、一宮が真清田(ますみだ)神社、二宮が大県(おおあがた)神社、三宮が熱田神宮だ。国司が赴任するとまず国府宮にもうで、以下、一宮から順に参拝していったのである。

 「尾張国衙址」と彫られた石柱が住宅街の中にあった。国司・大江匡衡(まさひら)の建てた「尾張学校院」跡の碑は名鉄「国府宮」駅の北側にあった。そして、その近くには歌人・赤染衛門(あかそめえもん)の歌碑公園も造られていた。

 これらはいずれも国府宮の西「松下」と呼ばれる地区に、いまは忘れられたようにしてあった。とりわけ住宅街の中に建てられていた「国衙址」碑はなかなか探せ出せなかったが、歩いていると「この地が政治や文化の中心地だったのか」と想像され、そのじれったさも苦にならない。確か『尾張名所図会』には赤染衛門が旅先でくつろぐ挿し絵も載っていたはずである。

 大江匡衡の名を知らない人でも、彼が開削したとされる「大江用水」の名はご存じかもしれない。才媛と歌われた赤染衛門はその夫人で、いっしょにこの地へ赴任してきたのだった。松下には彼女が衣を掛けたという松もあったそうだが、歌碑公園はそのゆかりの地に誕生したネコの額ほどの小さな公園だった。

 国衙は室町時代に至るまで、およそ500年ほど続いた。この間に移転したこともあったらしく、少し東の下津(おりづ)地区には「東国衙」「西国衙」の小字地名も残っているそうだ。国衙跡は一部で発掘調査も行われたがいまだ“幻の都”で、それだけによいけ想像力をかき立てられるようでもある。

 

国府宮と天下の奇祭“裸祭り”
神事の本命は深夜おごそかに

 国府宮の名称は江戸時代に付けられたのもで、尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)というのが正式の呼び名だ。祭神の大国主命(おおくにぬしのみこと)はこの地に降り、国土経営に当たられたとされている。大鳥居をくぐり広い参道を進むと重厚な楼門があって社殿へと続くが、この二つの建物はいずれも国の重要文化財に指定された立派なものである。

 神社で行われる儺追(なおい)神事は“国府宮の裸祭り”としてあまりにも有名。神護景雲元年(767)、時の国司が称徳天皇の勅令を受け、この神社で悪疫退散を祈ったのに始まる。毎年旧暦の正月13日に行われており、そのクライマックスが神男に触れて厄(やく)を落とそうする裸男たちの勇壮なもみ合いだ。

 実は筆者も今年、この年になって初めて参加した。残念ながら神男に触れることはできなかったが、この祭りの面白さに病みつきになりそうだった。数千人の裸男たちの激しいもみ合いや乱舞する姿、あるいは、かけられた水がたちまち湯気となる様など。見ているだけでも迫力は十分だが、やはり祭りは渦中の人となる方が数倍も楽しいと実感した。

 熱狂の祭りが終わると、もう一つの夜の神事が暗闇の中で始まる。翌日の午前3時、神男はこの世の厄をつき込んだ土餅と人形を背負わされて追い出される。境外に捨てられた餅は神官が拾って地中に埋め、厄を封じ込めて一連の儺追神事は終了となる。

 いま歩いている参道に人はいない。たくましい裸男たちであふれ、威勢のよい掛け声の乱れ飛んだあの日が幻のようだ。祭りの様子を思い出しながら、来年もまた来たいと改めて思うのだった。

 

受け継がれる植木の技術
「植木日本一」そのもとは?

 「尾張国分寺旧址」碑を探すのにも苦労したが、その途中で思わぬ発見もあった。「愛知県植木センター」と書かれた看板を見つけて中をのぞくと、多くの庭師さんたちが植木の剪定(せんてい)や庭の手入れなどに忙しそうだった。稲沢は植木や苗木、盆栽などの本場であり、とりわけこの辺りは一面に苗木畑が広がっている。

 ちょっと見せてもらうことにした。敷地は4ヘクタールにも及ぶそうで、中に実習場や温室、展示見本園などがある。この施設は緑化造園の指導と研修・研究を目的に、昭和61年にオープンしたそうである。

 剪定実習場では一人の先生を囲むようにして、松の手入れが行われていた。造園実習場にはたくさんの人がいたが、みな現役の庭師さんだそうな。別のところではクレーン車を使い、運転技能の講習会も行われている。

 庭師さんもいまやガーデンデザイナーと呼ばれる時代。若い人にも人気が出てきたそうだし、定年後にこの道を選ぶ人もあるとか。石庭や茶庭、枯山水などのミニ庭園で指導に当たっていた先生は「何年やっても、これでよし、ということはない。この仕事は実に奥行きが深い」とおっしゃるのだった。

 稲沢はどうして「植木日本一」になり得たのか。先人たちの努力や良質の土壌に恵まれたこともさることながら、そのもとをたどってゆくと国分寺に関係してくるらしい。「鎌倉時代の国分寺に伯庵というお坊さんがいましてね、その方が柑橘類の接ぎ木の技術を唐から持ち帰り、付近の農家に教えたのがそもそもの始まりなんです」(職員の話)。

 国分寺は聖武天皇の勅願により、五穀豊穣・国家鎮護を願って国ごとに建立された。いまはどこも廃寺になってしまったが、稲沢では思わぬ大輪を咲かせてくれていたわけだ。その国分寺跡を示す碑も探し出すのに苦労したが、それもそのはず、苗木畑の中に隠れるようにして立てられていたのだった。

 

霊験あらたか、矢合観音
名刹、回り切れないほどあちこちに

 立派な堂宇を想像して訪ねた矢合観音は意外なほどこぢんまりとした寺だった。なんでも在家の観音様を公開しているだけで、どこかの宗派に属しているわけではないらしい。そんな庶民性は駐車料も拝観料も不要といった、大らかな運営ぶりにも現れていた。

 それにしても、すごいにぎわいぶりである。小道の両側には植木や衣料、食品などを並べた店が競い合い、バスが着くたびに人の波が押し寄せてくる。こうして五平餅をほおばりながら、そんな店を一軒一軒のぞいて歩くのも楽しい。


矢合観音で霊水を組む人々
矢合観音で霊水を組む人々
 境内に入ると井戸の周りは人だかりで、ポンプで盛んに水が汲み上げられている。この水をビンに入れてお供えし、それを飲んだり体の悪いところに塗ったりすると治るそうだ。一種のおまじないでもあるようだが、これほど多くの人がここを訪れていたとは−−。

 「これで驚いてちゃ、いかんわ。毎月18日の縁日と日曜日はどえりゃー人出だでよう。わしも毎日みゃーりに来るけど、80になってもこの通りシャンシャンだでなも。いっぺんだまされたと思ってやってみやあ。ここの水は3年たったって変色しーせんでね。みんな不思議がっとる」

 居合わせた児島茂さんはこう語り、「若いころから心臓が悪かったが、ここまで長生きできたのも観音様のおかげ」と付け加えられるのだった。御本尊の観音様は10センチほどの十一面観音だそうだが、開帳されるのは毎月18日だけだとか。近年になってお堂を増築されたのも、「参拝客があふれて迷惑がかかるから」だとも。

 稲沢はかつての“首都”だっただけに、市内には由緒ある寺社も多い。国府宮をはじめ長光寺や性海寺、万徳寺、安楽寺、亀翁寺、その他まだまだ。そんな中にあって矢合観音は庶民信仰に支えられた異色のお寺だった。

 

[情報]稲沢市役所
〒492−8269愛知県稲沢市稲府町1
TEL0587−32−1111

 

 

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