マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
岐阜県串原村 |
たかがこんにゃく、されどこんにゃく 串原こんにゃく村探訪記
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森と湖、澄んだ大気と青い空
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鏡のような湖面を見せる奥矢作湖 |
この水瓶が西三河一帯を潤している。そして休日などには心の安らぎを求め、下流からこの村へ遊びに来る人も多いようだ。岐阜県側から見ると秘境のようにも思われたが、一本の川を通して愛知県とは想像していた以上に密接な関係にあった。
桜並木の奥矢作湖は あの娘しのべば花吹雪
幼なじみの愛しさ 恋と知らずにいた俺を
ダム湖の最奥にたどり着くと大野公園があった。遊歩道のかたわらに「くしはら風の恋歌」の歌碑。平成2年に行われたカラオケ大会はマスコミで大きな話題となったので、この村の名をそれで知られた方も多かったのではないか。
山側には串原資料館があった。ダムに沈むはずだった代表的な民家を移築しての施設。川沿いにあった民家70戸が湖底に沈んだそうで、展示されている600余点の品々はかつての暮らしぶりをいまに伝える貴重な資料だった。
少し上流へ行くと先ほど話に出た奥矢作勤労青少年レクリエーションセンターがあった。グランドやテニスコート、プール、体育館などのスポーツ施設を備えた水辺のリゾートエリア。思わず深呼吸をしたくなるようなこんな静かなところで、ゆったりとした休日を楽しめるのは、都会の人にとって最高のぜいたくと言えるかもしれない。
あたりを散歩した後、湖畔のレストランへ。メニューを見ると山の幸がいっぱい。こんにゃくと手作りハムはこの村の名物だし、矢作川でとれるアユを使った料理や蜂の子をまぶしたへぼめしもある。
「多くの方は何だ、こんにゃくかと思われるようですが、口にされるとそのうまさにびっくりされますよ。こんなにおいしいものだったのかと。煮物や田楽などにしてもいいですし、刺身やステーキもなかなか好評ですよ」
その言葉に偽りはなかった。刺身は何とも言えない歯ごたえと舌ざわりで、またの名を「山ふぐ」とも呼ばれているそうだ。その後、こんにゃく芋のある畑を村のあちこちで見かけることになるのだった。
この村にもゴルフ場ができた。豊田市から自動車で1時間とかからぬ便利さに、広い駐車場は車でいっぱいだった。いまや村内で一番、集客力を持つ施設のようだ。
目指す中山神社はそのゴルフ場の脇にあった。境内は薄暗いほどの原生林でおおわれ、数百年を経た古木が生い茂っている。それは人工的で明るいゴルフ場の緑とまるで好対照をなしているかのようだった。
この神社は領主遠山氏が奈良県吉野郡にある金峰神社の分霊を勧請して創建したそうだ。いま訪れる人は他にだれ一人としていないが、古くから厄除けの神様として広く信仰を集めてきたらしい。そうした事実を物語るかのように、寄進者の名に三河や尾張の人たちのものもあった。
毎年10月の第三日曜日がこの神社の大祭。祭りの主役は400余年の伝統に彩られた中山太鼓で、日ごろ静まり返ったこの森も、この日ばかりは一日中、勇壮な太鼓の音が響き渡る。村人らでごった返す境内は熱気と興奮に包まれ、“まわり打ち”という独特の打法がいつまでも打ち続けられる。
それもそのはず、その理由は太鼓の由来にあった。天正2年(1574)、武田勝頼は美濃の攻略にかかるが、それを迎え撃つ串原勢は味方の士気を鼓舞するために乱打し続けた。いまではこれが県の文化財に指定され、郷土芸能として海外で披露されることもあるそうだ。
最近、村おこしで和太鼓が盛んになってきた。が、村人たちの間にはそうしたものとはまったく違うという、強い自負の念があるようだ。
村の入口に役場や駐在所はあったが、村で一番大きな集落は北の山側に入ったところだ。そこへ向かう道の途中に「お軽の滝」の看板があった。遊歩道をたどって歩いて行くと乙女の雨ごい伝説にまつわる滝が見えてきたが、それはゴーゴーと音を立てて流れ落ちる豪快なものというよりも、天女が羽衣を翻しているような優雅な感じのするものだった。
町は山あいに開けていた。学校や保育園、診療所などの施設はこの地区に集まっている。村は世帯数で300ちょっとだそうだが、その大半がここにあるということになるのだろうか。
そうした中でとりわけ目立つのは、村が「郷土芸能と文化の殿堂」と自慢する「サンホールくしはら」だった。昔は村内の各地区に芝居小屋があり、そこで串原歌舞伎が演じられていたそうだ。そうした伝統はいまも保存会の人々や小学校のふるさと教育として子供らにも受け継がれ、ここを晴れの舞台に様々な活動が繰り広げられているとのことだった。
「もう1週間遅く来ていただいたらよかったのに。コミュニティセンターの周辺で〃いい村一番まつり〃というのが開かれてな、農協や森林組合も加わって秋の味覚がどっさり並ぶんや。ほかに楽しいイベントもいっぱいあって、どえらいにぎわうんだけどなあ。串原を知ってまうにはもういっぺん来てまわないかんな」
そのコミュニティセンターの2階には〃なぶり仏〃と呼ばれる木製の仏様が展示されていた。大きい10体は50センチほど、2体がそれよりやや小さめ。子供の遊び相手としてなぶられ続けてきたためか、顔の表情はすり減って分かりにくいほどだが、どうやら十二神将のようだった。
近くにあったこの村ただ一つのお寺、黄梅院に参拝して帰り支度につくことにした。冒頭で初めて訪れたと書いたが、案外、知らないでいたのはぼくだけだったかもしれない。そんな感想にひたりながら、こんにゃくを手みやげに串原村を後にした。
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