マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
三重県紀宝町 |
明るい日差しと紺碧の海 熊野灘の黒潮に、旅心がはずむ
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海岸埋め尽くす御浜小石
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荒波と小石の続く七里御浜 |
延々と続く海岸は砂浜ならぬ小石の浜辺。どの石も波に磨かれて丸くなっている。だれもいないと思っていたが、よく見ると遠くで何かをしきりに拾っている人影が。
「この石かい? 黒いのは那智黒じゃな。ええっ? こんなに波が荒いかって。ここはいつも荒いよ。でも、今日は普段よりちょっと大きいようで、先ほど地引き網をする人たちも中止するようなことを言っとったよ」
おばあさんはこう話しながらも、手はしきりに小石を拾い集めていた。「海は泳げねえけど、魚がいっぱいいるし、こうして石を運んでくれるし、まったくありがたいよ」。こちらも記念に黒くて平ぺったい石と、見事に丸い白い石とを拾って持ち帰ることにした。
ここへ来るまでの、国道42号からの眺めが素晴らしかった。道は海岸に沿って走り、七里御浜がどこまでも続く。どの川の河口も小石の堤防でふさがれてしまっているが、熊野灘から押し寄せる波はそれほど強烈なのだろう。
国道脇に「道の駅」があった。このあたりの浜辺にはウミガメが産卵に訪れ、ここはユニークな「ウミガメ公園」ともなっている。大きなプールに何匹ものカメがゆうゆうと泳ぎ、館内にはその生態などを紹介する展示コーナーやビデオコーナーもあった。
景勝地の「道の駅」とあって人気も高く、ドライバーがひっきりなしに訪れる。特に子供たちには人気のようで、プールや水槽のカメに歓声をあげ、そして食い入るようにみつめている。串本からの帰りというお父さんはそんなわが子を目で追いながら、「こうした楽しい施設がもっとできるといいですね」と顔をほころばせていた。
ウミガメがやってくるのは、毎年5月から8月にかけて。夜間、ピンポン玉くらいの卵を約2時間かけ、一度に120個ほど産んでいくそうだ。町は全国でも初めての「ウミガメ保護条例」を作ってその保護育成に努めており、松林に近い砂浜には卵を集めてふ化させる施設も作られていた。
小石の浜辺は熊野川の河口まで続いている。先ほどのおばあさんに教えてもらった地引き網も、この「道の駅」の少し向こうで行われるとのことだった。あいにく今日は中止のようだが、近年は観光客を対象にした観光地引き網も人気らしい。
この町自慢の味はアユを使った「なれずし」とタカナの葉を巻いた「めはりずし」、それに「さんまずし」とか。国道沿いの店で「さんまずし」を注文した。熊野灘でとれる魚は波にもまれて脂肪分が少ないのか、あっさりさっぱり、なかなかの逸品であった。
熊野川に沿ってさかのぼる。対岸はもう和歌山県の新宮市だ。熊野大橋は三重県側がアーチ状、和歌山県側が欄干状となっており、いかにも「ここからは県がちがうぞ」と主張しているみたいで面白い。
大河は曲がりくねりながらゆったりと流れ、石ころで埋め尽くされた河原があちこちに広がっている。自然の息づく美しい川で、まるで絵はがきでも見ているような光景。そう言えばば、井田海岸に打ち寄せられるおびただしい石は、以前、この川からはき出されたものだったのだろうか。
目指す「飛雪の滝」は15分ほど走った浅里神社の脇にあった。落差は30メートルほどあるが、水量に乏しくどことなく弱々しい。滝を望む公園でモニュメント用の水車を取り付けていた大工さんは「いま田んぼに水を回しとるさかい、どうしてもなあ。せっかく来たのなら山の中にある落打の滝を見ていくといいよ」と。早速、行ってみることにした。
浅里地区から桐原地区へ林道が抜けている。この一本道をたどれば自然に着くとのことだったが、遠い遠い、百曲がりとでも言えそうなとんでもない山道だった。どこまで行ったらあるのか……といささか心細くなる。
30分ほどしてやっと見つけた「落打滝」の案内板。しかし、肝心の滝は岩石がゴロゴロある谷の、もっと上流部にあるらしい。岩を伝い、川を飛び越え、クモの巣を払い……難行苦行の川歩きが続いた。
「あ、あった! これだ、これだ」
川原を右に折れたとき、突然、眼前にその滝は現れた。まだ岩場が続くようなら、もうあきらめようかと思いかけていたころだ。高さといい岩肌といい、先ほど見た滝とウリ二つだが、こちらは水量も多く迫力に富み、何よりも大自然の新緑の中にあるのがいい。滝つぼ近くの岩に腰を下ろし、しばしその様に見とれるのだった。
滝のある桐原地区を経由して、いま来た道とは反対側の山道を下ることにした。途中で立ち寄ったのが平尾井地区にあった薬師寺。樹林の中に造られた何段もの石段を登ってゆくと、やがて目にも鮮やかな朱塗りの小堂が見えてくる。あたりは静寂そのもので、小鳥のさえずりが耳に心地よい。
この寺は白河法皇が熊野に詣でた折に建てられたもので、熊野三仏の一つに数えられているとか。裏へ回るといまにも小堂を押しつぶすのでは……と思われる巨石がすぐ後ろにデーンと居座っていた。山寺から見下ろす山村の風景はのどかそのもので、じっとたたずんでいるだけで心までが洗われてくるようだった。
武蔵坊弁慶はこの町で生まれていた! その遺跡にたどり着くまでには随分難儀したが、尋ね尋ねて相野谷川の下流でようやく見つけることができた。あたりは小さな史跡公園になっており、クスノキの近くに古びた石碑がぽつんとあった。
よく見ると「弁慶産家楠跡」とあり、その脇に刻された「寛政七乙卯四月三日焼失」の文字がかろうじて読みとれる。弁慶の生家跡にはクスの大木が残されていたそうだが、それも寛政7年(1795)に焼けてしまったのだろう。弁慶というと和歌山のイメージが強いが、この町にも誕生伝説は語り伝えられていたのだ。
ここにたどり着く途中、何度も何度も人に尋ねた。そのうちの一人、砂利を運ぶトラックの運転手さんには「こちらが本当だよ、あまり宣伝しちゃいないけど。信じてよ、ね」と念を押されてしまった。そうなのだ、遺跡は確かにあった。弁慶はここで生まれている!?
三重県の最南端、紀宝町はこの日も明るくおだやかだった。太陽がやけに大きく見える。そんな強い光の中でみかんがたわわに実り、町は終日、南国ムードにあふれていた。
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