マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
長野県大鹿村 |
南アルプスに抱かれた山岳ののどかな村 秋葉街道、中央構造線に沿うように
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眼前に南アルプスの山々
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南アルプスの麓、山深い大鹿村 |
雄大な景色を堪能した後、村の特産品売り場「ビガーハウス」に立ち寄った。すると意外にも売店のおばさんが「あちらからは山陰になって赤石は見えないでしょ」とのたまうではないか。まさか?とは思ったが、よく見えるというパノラマ公園の方に引き返してみることにした。
つづら折りの道はまたたくまに高度を上げていく。公園には展望台が設けられており、ここからは南アルプスばかりか中央アルプスの山々までが見渡せた。あいにく双方とも薄く雲がたなびいていたが、山頂はそれを突き抜いてそびえ立ち、かえって雄々しく感じられてくる。
最初に見たのはどうやら大沢岳のようだ。その左手に一段と高くそびえているのが標高3120メートルの赤石岳だった。こちらからは高見の見物という格好になり確かによく見えるが、迫力という点では最初に見たときの方がはるかに優っていた。
隣にいる若いカップルが「山の向こうは静岡県だね」などと話している。内心「ばかなことをいってちゃいかんよ」と思ったが、後で地図を見てみたらやはりそうだった。静岡県の奥深さにも驚かされた。
後醍醐天皇による建武の中興から、南北朝の動乱をへて、足利尊氏の室町幕府開設へ--。京都と鎌倉とを両軸に、歴史は激しく揺れ動いた。草深いこの村とて例外ではなかった。
後醍醐天皇の皇子、宗良(むねなが)親王は尊氏を討つために各地を転戦、興国4年(1343)の冬、ここ大鹿村の大河原地区に入った。迎え入れたのはこの地に威を張った大河原城主・香坂高宗である。このとき親王は33歳だったと言われ、後に「信濃宮」とも呼ばれることになる。
信濃宮神社はその親王をお祭りしていた。神社は人里離れた杉林の中にあったが、社殿は想像していた以上に立派なものだった。しかし、神社の創建となると昭和15年と比較的新しく、社殿ができたのは同23年のこととある。
この付近には関連の史跡が点在していた。大河原城址の後ろは崖となって小渋川に落ち込み、城跡の一角にはこけむした石碑と由来を記した看板が立てられていた。また、忠誠を尽くした高宗の墓は道路を隔てた反対側の小高い丘の上にあった。
両者の間にある道路脇に、ぽつんと建つ小堂が親王の祈願所、福徳寺の本堂だった。鎌倉初期に建てられたと言われ、簡素にして優雅な姿を見せている。江戸時代、老中を務めた水野忠邦が浜松へ移築しようとしたが、村人たちはこれを拒んで守り続けてきたそうだ。国指定の重要文化財がのどかな山里にさりげなくあるというのがまたいい。
親王は高宗の支援を得て各地で戦ったがいずれも利なく、30有余年をこの地で過ごし、後に吉野に帰っている。歌の方では当代随一と称され、代表作とされる歌集『李花集』はここで編纂され、また『新葉和歌集』の選者としてもその名を知られている。先に訪れた信濃宮神社の前には歌碑も建てられていた。
君のため世のため何か惜しからむ 捨てて甲斐ある命なりせば(新葉和歌集)
我を世にありやと問はば信濃なる 伊那とこたえよ嶺の松風(李花集)
大鹿村はまた温泉どころでもあった。小渋川沿いには小渋温泉が、支流の鹿塩川沿いには鹿塩温泉がある。その晩、村の中心部にあった小渋温泉の中でも「生津(しょうつ)の湯」と呼ばれる一軒の宿に足をとめることにした。
翌朝、冷気をついて散歩に出掛けた。この村に入ってくるとき、行き交うダンプカーの多さにあきれ、砂利の採取場を見てぼやいたものだった。この地区では川をはさんだ対岸の山が山頂近くまで見るも無惨に削り取られている。
歩いていて、ふと道路脇の石碑に目がとまった。てっきり採石場だとばかりに思っていたのに、あのえぐり取られたような跡は山崩れでできた爪痕だったとは。慰霊碑のそばには「昭和36年6月29日午前9時10分ごろ、対岸の大西山が大音響とともに崩壊した」旨の説明文が添えられている。
もう畑仕事に出ている人がいた。当時の様子はどんなものだったのか。
「そりゃ、言葉になんてならないよ。ドーンというものすごい音がしたかと思うと地響きを上げて山が崩れ落ちてきた。あっという間もなく土砂で埋め尽くされてしまったよ。川はせき止められてダムのようになり、今度は鉄砲水となって荒れ狂った。ほら、川の向こうに大西公園と書かれた看板が見えるだろ。あそこに犠牲者を弔った観音様があるよ」
川ではいまも復旧整備事業が進められていた。大西公園に来ると死者55人を供養する大きな観音像が村を見下ろすようにして建てられていた。周り一帯は桜の園に生まれ変わり、公園として村民の憩いの場にもなっている様子である。
宿に帰る前に大磧(たいせき)神社にも寄ってみることにした。国の無形民俗文化財に指定されている、大鹿歌舞伎が演じられる会場の一つと聞いていたからだ。境内には舞台が設けられていたが、公演当日は大勢の観客でさぞかしにぎわうにちがいない。
「ここでは100万年や200万年前なんて、まるで昨日か一昨日(おととい)のようだな」
「ほんとよ、気が遠くなるほどよね」
村の人気施設、中央構造線博物館。係の人が大型の地質模型や岩石の標本などを前に、日本列島の生い立ちやこの村の地形を解説してくれる。熱心に聞き入っていた見学者の間から、一通りの説明が終わるたびごとに、感心したかのように様々な感想がもれた。
日本一長い大断層、中央構造線は村の中を駆け抜け、博物館もその上に造られている。朝方見た大西山もこの線上に位置していたし、次に行く予定の秋葉街道もこれに沿ってできていた。昨日見た大沢岳や赤石岳は砂岩の表面が風化して赤く見えるそうだし、鹿塩温泉の湯が塩辛いのは海水が地層に封じ込められているためらしい。
隣接の歴史民俗資料館「ろくべん館」を見て(「ろくべん」とは歌舞伎見物のときなどに用いた一人用の弁当のこと)、すぐ前を通るかつての秋葉街道、国道256号を南へ下ることにした。国道とは言いながら、南アルプスと伊那山脈の間を通る狭い道路だ。先は構造線に沿うようにして、遠州にまで通じている。
この道は塩に代表される生活物資を運んだ命の道であり、また秋葉神社にお参りする信仰の道でもあった。さらに遠くは宗良親王や武田信玄も駆け抜けたにちがいない。いまはすれ違う車とてまれな、谷底を走るひなびた国道であった。
途中には構造線を示す岩肌の露出したところもあった。曲がりくねった道を上り切ると、そこが村はずれの地蔵峠だった。かたわらには忘れられたかのように、小さなお地蔵さまが祭られていた。
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