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三重県関町

歴史がある、自然がある 鈴鹿の山を仰ぎ見ながら、ぶらり街道散歩

東西を分けた関所の町
宿場の風情、いまに

 関町は古代三関の一つ「鈴鹿の関」の置かれたところ。関の東がいわゆる“関東”であり、都人の目から見れば、これ以東は野蛮人の住む国だったのかもしれない。近世に入ってからは東海道五十三次の宿駅となり、本陣や脇本陣、旅篭、茶屋などが軒を連ねることになる。


宿場らしさを漂わせる関の目抜き通り
宿場らしさを漂わせる関の目抜き通り
 伊勢別街道との分岐点“東の追分”から、大和街道との分岐点“西の追分”まで、その距離約1、8キロがかつての宿場町。一帯は「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、訪れる観光客も年とともに増えている。改築中の家があったので大工さんに声をかけてみたら、「周囲の景観に合わせて、外観は昔風にする」とのことだった。

 歴史資料館は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋」と言われた大旅篭「玉屋」をそのまま利用したものだった。高札場跡にある郵便局は土蔵風の落ち着いた造りで、周りの町並みにうまく溶け込んでいた。街道筋には昔ながらの鍛冶屋さんがあり、桶作りに励む職人さんの姿も垣間みられる。

 新たにできた休憩所、眺関亭(ちょうかんてい)の2階に上ってみた。街道の両側に並ぶ家々のいらかが美しい。その向こうに“関地蔵”地蔵院の大きな本堂が見え、背後には鈴鹿の山がかすみの中にそびえていた。大名行列や伊勢参りの人々も、険しいあの山を越え、この街道を通り、東に西にと行き来したはずである。

 「関の山」という言葉がある。毎年、夏祭りにはここで曳山が行われてにぎわうそうだが、ただでさえ狭い道が大きな山車でいっぱいになってしまうとか。そうした光景を見た昔の旅人たちが「限界ぎりぎり」の状態を「関の山」と言うようになったそうである。

 レトロな造りの食堂で、昼食をとることにした。添えられる味噌汁に興味を持ったが、出てきたのは「なるほど」と思わせるものだった。赤でもない、白でもない、両者をまぜ合わせたミックス味噌だった。

 

共感呼ぶ女性2代の仇討ち
旅人通して口から口へ

 関の小万が亀山通い 月に雪駄が25足

 街道を少し脇にそれた福蔵寺。境内に女の仇討ちで知られる小万の墓があった。この寺はまた信長の三男、織田信孝の菩提寺でもある。

 小万の父は久留米藩の剣術指南役を務めていたが、ある日、同僚の小林軍太夫に殺されてしまった。妻は身重であったにもかかわらず、逃亡した軍太夫を追って仇討ちの旅に出る。たまたま止宿した関の山田屋で小万を出産することになるが、産後の肥立ちが悪くここで他界してしまった。

 時は流れ、小万15歳。愛育してきた宿の主人は母の遺言を伝え、その遺志を継ぐべきだと説得した。雨の日も雪の日も「月に雪駄が25足」と歌われた小万の道場通いが始まる。

 ある日、たまたま道場に逗留していた浪人が亡父の仇、軍太夫によく似ていることを知った。それとなく生国や素性などを尋ねてみるのだが、聞けば聞くほど探し求めていた軍太夫に間違いない。小万は相手の技量をはかりながら、いよいよ剣の道に励んだ。

 天明3年(1783)8月、ついに意を決した。馬子に姿を変えて亀山城下の札の辻で待ち構えた。女の身ながら修行を重ねてきた腕前、さすがの軍太夫も不意をつかれてはひとたまりもなかった。

 小万は本懐を遂げた後も、山田屋に残って孝養を尽くした。そして、享和3年(1803)36歳の若さで亡くなっている。その山田屋はいまでこそないが、地蔵院の前に、わずかばかりの遺構が残されていた。

 

もう一つの宿場、坂下宿
東海道は草むらの中に

 東海道をさらに西に進むと、鈴鹿のふもとの坂下(さかのした)集落に出る。こちらは華やかな関の宿場町とは違い、ひなびた風情のただよう忘れられたような町だ。道はここから鈴鹿峠にさしかかるが、先は「8丁27曲がり」とも呼ばれた急坂である。

 坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山(つちやま)雨が降る

 集落の一角に「鈴鹿馬子唄会館」が造られていた。こちらでは日が照っていても、鈴鹿峠や向こう側の土山では雨の降っていることも多いそうだ。先ほど紹介した関の小万の一節も、馬子たちによって、ここを通る旅人らに歌い伝えられた。

 鈴鹿馬子唄は馬子唄の南限とある。箱根と並ぶ東海道の難所だけに、これを耳にした人たちにはひときわ印象に残ったらしい。鈴鹿の馬子唄は各地に伝えられ、参勤交代の大名の中には、入府に際してこれを歌わせる者もいたとか。

 眼前に立ちはだかる峠を前に、旅人はこの宿で足をとめた。逆に近江側から峠を越えてきた人たちは、難所を無事に越えることができて、一休みしたい気持ちにもなったにちがいない。いまはひっそりとした山あいの集落だが、東海道がまだ日本の動脈だったころには、行き交う旅人や馬子たちでさぞかしにぎわったことだろう。

 峠の中腹に片山神社があった。深い森の中にぽつんとたたずんでいたが、石段を登って目にした社殿などは朽ちかけた哀れなお姿だった。草深い東海道には人の気配すらなく、道そのものがいまにも消えてなくなりそうだった。

 目の前を国道1号が走っている。道はつづら折りに曲がりくねり、自動車がうなり声を上げて通り過ぎてゆく。そのふもとにはドライブインもいくつかあったが、峠を前にして(あるいは越えて)、一服したい気持ちは昔も今も変わらない人間心理なのだろう。

 

平家の若君の隠れ里
久我は関氏発祥の地

 名阪の久我インター近くに、久我という小さな村がある。そこは平家の若君が隠れ住んだ所であり、後の豪族・関氏発祥の地でもあるという。さっそく車を走らせた。

 村人の言い伝えによると、その人、平資盛(すけもり)は重盛の二男で、清盛の孫に当たるとか。13歳のとき、摂政・藤原基房(もとふさ)の行列に無礼があったとして、ここ久我の地に流されてきた。一帯は伊勢平氏ゆかりの地でもある。

 資盛は祖父清盛からもらったお守りの白い石に向かい、一日も早く都へ帰れることを祈った。すると石は次第に大きくなり、後には村人たちにより「白石さん」と名付けられて神社の御神体とされた。当の資盛は5年後に都へ帰ることを許されたが、壇ノ浦の戦いで海の藻屑となっている。

 ゆかりの白石神社へ行こうと、通りすがりの人に聞いてみた。「石はあるけどなあ、神社は明治の終わりごろになくなったんや」。ならば、せめてその石だけでも見たいと思い道を尋ねると、山のてっぺん近くを指さして「あの鉄塔のそばだ」とのこと。とても行けそうなところではなかった。

 この資盛伝説にはまだ続きがある。久我にいたとき、里の娘との間に一子盛国を設けていた。盛国の子実忠が鎌倉幕府の地頭に任じられて関氏を興し、同氏は信長に滅ぼされるまでの間、14代約400年にわたって栄えることになるのである。

 久我の観音堂に盛国の木像が安置されていた。その子で関氏開祖の実忠は鎌倉幕府に仕えた後、故郷の久我に帰って余生を過ごしている。関宿の町並みの基礎も14代の盛信によって造られたそうで、連綿と続いた関氏こそ、この町の立役者と言えるかもしれない。

 

[情報]関町役場
〒519-1107 三重県鈴鹿郡関町大字木崎町919-1
TEL:05959-6-1212

 

 

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