マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
岐阜県明智町 |
大正の面影が残る郷愁の町 モボ・モガも歩いた? ハイカラ小路も
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地図を片手に町の中へ
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「女工哀史」の歴史が伝える糸曳き乙女地蔵 |
スピーカーの音を聞きつけてか、説明に登場して下さったのは、すぐ前にお住まいの堀善男さん。当時は町のあちこちに工場が建ち、たまの休日はここへ遊びに来るのが唯一の楽しみだった。この町でそれほど製糸業が栄えたのも、夏場の涼しさが良質のマユを作り出したためだとか。
明治から昭和にかけてのおもちゃを集めた「おもちゃ資料館」、京都のカフェーを復元した「天久資料館」をのぞき、明智大橋を渡れば、この散策コースも終わりだ。南北両コースを合わせても、4時間ほどあれば十分である。
近くの食堂に入り、ビールで乾いたノドを潤した。たった1人の客は地元にお住まいの方だった。この人も遠慮深いのか「何にもない」と謙遜し、「若い人の中には『つまらない』とか『だまされた』とか言う人もいますよ」と苦笑した。
確かに京都や高山、あるいは木曾の妻籠などのように、華やかさに欠けるところはあるかもしれない。しかし、旅人をもてなそうとする心遣いは大したもので、なかなかどうして、実に楽しいひとときであった。
明智氏の城は明智町になかったし、肝心の光秀もこの町とは無縁だった--こんなことを書き出すとおしかりを受けそうだが、最近の研究では光秀ゆかりの明智城は可児市(岐阜県)の明智城(別名・長山城)ということになりつつある。光秀の前半生は不明なことが多く、「逆臣」の汚名がそれにいっそう輪をかけてしまったようだ。
しかし、こう結論付けてしまったのでは、わが町の英雄とする明智町の立場がない。「光秀公の名前さえはばかられた時代に、この町では親から子、子から孫へと語り継がれてきました。学者先生がどう言おうと、私たちにとってはこれが真実なんです」。昨日、食堂で会った人はこう言って、伝承されてきた〃事実〃を強調するのだった。
その産湯の井を見に、千畳敷公園を訪れた。井戸は金網でふさがれ、周りを木枠で囲まれていた。脇の案内板には「伝説によれば」と前置きして解説されていたが、やはり正式に名乗り出るには遠慮があるのだろうか。
それにしても、光秀ゆかりの史跡は町内のあちこちにある。幼少のころ学問に精を出したという天神社、光秀が勧請したという柿本人麻呂社、母お牧の方の墓石の脇にはその名にちなみ、樹齢数百年の高野マキがどっしり腰をすえていた。
そして毎年5月の第一日曜日には町を挙げて「光秀まつり」が繰り広げられる。この日は光秀や姫君、腰元などに扮した行列が町内の目抜き通りを華やかにパレードする。もちろん、ここには信長も秀吉も登場してこない。
千畳敷公園の展望台で町を見下ろしながら、2人の主婦が弁当を広げていた。「町民として、どうお考えですか」と水を向けると「だれが何と言っても、そりゃこちらですよ。観光客の中には本当はどちらなんだ?と食い下がる人もいますけどね」と言ってたがいに笑い合った。町当局の統一見解というものはなく、説明はボランティアの自主性に任されているらしい。
光秀と並んでこの町にゆかりの深いのが“遠山の金さん”のルーツである明智遠山氏だ。明智の築城は鎌倉時代にさかのぼるとも言われ、戦国時代の初めには遠山景行が居城して恵那、土岐2郡に勢力を張った。景行の墓は安住寺にあったが、寺はその奥方の開いたものでもあった。
あまり高そうな山でもないので、登ってみることにした。農作業中の人に道を尋ねると親切に教えて下さったが、ここでもまた「何にもないですよ」の言葉。むろん、天守閣などは期待していないので、その心配には及ばない。
昨夜は寒さで震えたものだが、日中は春のような陽気となった。額に汗をにじませながら、しばらくは杉木立の中を歩いた。天神社の横を通り、いくつかの曲輪を通り抜け、山頂の本丸跡に到着した。
本丸跡に立てられた案内板には意外にも光秀の名が登場していた。天正2年(1574)3月、武田勝頼は1万5000の大軍を催してこの城に押し寄せた。景行の孫・一行(かずゆき)からの急報に、信長は長男・信忠と光秀を呼び寄せ、自らも3万の兵を率いて救援に駆け付けた。
勝頼は騎馬軍団の勇将・山県昌景に命じ、6000の兵でその行く手に立ちはだかった。さすがの信長も山岳戦での不利を悟り、はやる光秀らをなだめて引き揚げてしまう。見殺しにされた城兵たちは岩石を落とすなどして激しく抵抗するが、怒涛のように押し寄せる「風林火山」の旗の前に、もはや風前のともしびであった。
「なるほど、そうだったのか。すると、光秀も明智の地を踏んでいたことに……」
文字を読んでいて、思わずつぶやいてしまった。この戦いで光秀らの思いはかなえられず、500を超す兵たちは城を枕に討ち死にしている。美濃、信濃、三河の国境付近に位置したことから、戦国時代にはここを舞台に数々のドラマが繰り広げられてきたのだった。
城は急峻な地形を巧みに利用して築かれており、尾根伝いに大小20余の曲輪と土塁、空堀跡などが残されていた。石垣の見事な隣接の岩村城などとは違い、ここは土盛りして築かれた素朴とも言える山城だ。これだけ原形をとどめているのは珍しく、城跡一帯は岐阜県の文化財にも指定されている。
帰りは陣屋側に下りた。遠山氏は江戸時代になって旗本に転じるが、その出先機関として利用されたのがこの陣屋だ。すぐ近くにはこれまた観光の目玉となった「大正ロマン館」があった。
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