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三重県菰野町

自然息づく山あいの“都会” 史跡いろいろ、歴史に彩られた町

山頂は暑さ忘れる別天地
雄大な眺め、人気の空中散歩

 菰野町と言えば湯の山温泉、湯の山温泉と言えば御在所岳。この二つはそれほど有名だが、これしか知らない。いや、朝明渓谷は遊びに来たことがあるから知ってはいるものの、いずれも日帰りばかりで、この町は知っているようでいて意外に知らなかった。

 まずは定番のロープウェイで御在所岳(標高1212メートル)へ。菰野の町が手に取るように分かり、その向こうにある伊勢平野や伊勢湾、さらには太平洋までもが望めた。眼下に広がる緑濃い山麓の眺めを楽しんでいると、以前訪れたときの見事な紅葉シーンまでが思い出されてくる。

 まだ8月だというのに、山頂では銀色をしたススキの穂が揺れていた。赤トンボが群れをなして飛んでいる。吹く風はさわやかで、一足先に秋の気配を漂わせいていた。

 御在所は垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢神宮(内宮)の御神体を野代宮(桑名郡多度町)から忍山宮(亀山市)へ移されるとき、仮の住まいとして「安斎所」を置かれたところだとか。その「安斎所」は「御斎所」とも呼ばれ、いまの「御在所」の字が当てられるようになった。山頂西側の峰には御嶽大権現も祭られていたが、これは明治17年に木曽の御嶽から分霊をもらい受けて建てられたものだ。

 望湖台から琵琶湖や鈴鹿の山々を眺め、ニホンカモシカセンターでは世界各地のめずらしいカモシカも見た。ここは本州の中央部にあって南方系と北方系、さらには太平洋側と日本海側との気候が交わるところでもあり、周りには貴重な動植物も見られるとか。下界の暑さをすっかり忘れ、しばらくは山上ウオーキングとしゃれ込んだ。

 ロープウエィ発着場のある地が湯の山温泉である。養老2年(718)の発見と古く、旅館やホテルは三滝川の両岸に並んであいる。宿に入るにはまだ少し早く、「僧兵祭り」で知られる三岳寺や落差50メートル以上もある蒼滝(あおたき)などを歩いて回ることにした。

 

信長の孫娘、藩の基礎を固める
南朝の家臣、この地で頑張る

 うかつにも菰野に藩があったとは知らなかった。道理で山あいの地にありながら、にぎやかな町だったわけだ。城跡は近鉄湯の山線の菰野駅と中菰野駅との中間にあり、菰野小学校の校庭にはそれを示す石碑も建てられているとか。

 「お墓のこと? プールの後ろにあるやつかなあ」

 碑がなかなか見つからず、居合わせた小学生に尋ねた。「お墓」には思わず苦笑してしまったが、来てみれば確かにそんなふうにも見える。菰野藩1万2000石は土方氏12代を城主に、明治まで続くことになる。

 その初代となったのが信長の子・織田信雄(のぶかつ)に仕えた土方丹後守雄氏(かつうじ)だった。関ヶ原合戦の功によってこの地を与えられ、その翌年、慶長6年(1601)3月に城を築いている。それまでは京都にいたそうだが、信雄の娘八重姫をめとろうとしたとき、「堀もないようなところへ行くのはいやじゃ」と言われ、使者の来る直前に突貫工事で堀を巡らしたというエピソードの持ち主だ。

 近くにある見性寺が土方氏の菩提寺。墓地には城主らの墓に交じって八重姫のものもあった。彼女は92歳まで生き、3代にわたって若い藩主を陰から支え、草創期の藩政に大きく貢献したそうである。

 もう一つの城は千草地区の丘にあった千種城。こちらは南北朝期の城跡とあり、菰野城よりもずっと古い。後醍醐天皇に仕えた勇将・千種忠顕(ただあき)の子・顕経(あきつね)によって築かれたものだった。

 ここは伊勢から峠を越えて近江へ抜ける千草街道に当たっている。顕経はこの要地に目をつけ、以来、千種氏はここを本拠に、北伊勢の豪族として威を振るった。城の遺構は比較的よく残され、二つの曲輪とその間には空堀があり、曲輪には土塁の一部らしいものも見られた。

 三重を旅していると、信長に征服された悲鳴が聞こえてくるようでもある。昨日訪れた三岳寺も信長に焼き討ちにされて廃っていたし、ここも信長の家臣滝川一益に攻められてその軍門に下っている。そんなことを考えていると、かつてどこかの資料館で見た「信長の野望、やむことなく」の文句が頭に浮かんでくるのだった。

 

杉谷善住坊はここの人だった
歴史秘め、尾高観音ひっそり

 名古屋・大須の万松寺では毎月28日、身代わり餅をついて参拝者らに振る舞っている。元亀元年(1570)5月、信長は近江から岐阜へ帰るとき、千草山中で杉谷善住坊という鉄砲の名手にねらい撃ちにされた。幸い、懐中にしていた餅で危うく命拾いしたが、それは万松寺の和尚からもらったものだった。

 杉谷善住坊に撃たれたことは信長の事績を記した『信長公記』にも登場してくる。同書は後に善住坊を見つけ出し「たてうづみ(立て埋み)にさせ、頚(くび)を鋸(のこぎり)にてひかせ、日比(ひごろ)の御憤りを散じさせられ」たと書く。この善住坊の出た杉谷地区が千種城から1キロほど北へ行った地にあった。

 そんな血生臭い話とは裏腹に、周りは尾高高原と呼ばれるリゾート地のようなところだった。東海自然歩道が通り、広大な三重県民の森があり、キャンプ場はこちらにもあった。釈迦ケ岳(標高1092メートル)のふもとに当たっており、鈴鹿国定公園にも含まれている。

 近くの尾高観音に足を延ばしてみた。途中に中世の寺院跡から出た遺物などを納める杉谷遺跡の収蔵庫もある。長い参道の両側にはヒノキの古木が林立し、その奥に端正な形をした六角堂がひっそりとたたずんでいた。

 尾高観音は桓武天皇から尾高山引接寺の勅号をもらい、七堂伽藍のある荘厳な寺院だったらしい。創建はすこぶる古く、8代孝元天皇の御代にまでさかのぼるとか。六角堂に聖徳太子作という千手観音が安置されていたが、これは修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)が釈迦ケ岳で修業中に納めたと伝えられている。

 杉谷善住坊はこの塔頭の一つ、尚道寺の住職でもあった。この大伽藍も天正年間(1573-1592)に信長によってことごとく焼き尽くされている。うっそうと茂る山中にあったが、野鳥やセミの鳴き声でなかなかにぎやかだった。

 

弘法様がいた、七福神がいた
壮観、大日堂の五百羅漢

 「あれ? これうちのおじいさんにそっくりじゃない」
 「そう言う自分にも似た人がきっといるはずだよ」

 中年の女性が写真を撮っていたご主人に声をかけた。確かめに来た夫はそれを見つめて笑っている。これだけたくさんの人がいれば、どこかに似た人がいても不思議ではない。


竹成地区にある五百羅漢
竹成地区にある五百羅漢
 竹成地区にある松樹院の五百羅漢。小高く盛られた山の上に大日如来が祭られ、斜面をおおうかのように無数の石仏がぎっしりと並べられている。五百羅漢はしばしば見受けるが、青空のもと、これだけあると壮観と言う他はない。

 笑っている人あり、怒っている人あり。空を見上げる人がいるかと思えば、うつむいて何事かを考え込む人もいる。仏様に交じって神様までもいる。

 これは嘉永5年(1852)、竹成出身の照空上人によって作られたものだとか。石工は桑名藩の名工藤原長兵衛とその一門で、10余年の歳月をかけて完成させたそうだ。明治の廃仏毀釈などで一部が損なわれたりしているものの、風化もそれほど進んでおらず、一人ひとりの表情がはっきりと読み取れる。

 ここ松樹院は大日堂の名で親しまれてきた。本堂の中をのぞくと建物とは不釣り合いなほど、立派な仏像が対で並べられていた。右側が胎蔵界大日如来、左側が金剛界大日如来で、二つの座像はともに1メートルを超す大きさ(県の文化財)。弘法大師はここにも足を留められたそうで、この地にも古代仏教が花開かせていたことをうかがわせてくれた。

 菰野町は御在所やキャンプ場など、大自然だけが売り物の町ではなかった。初めて1泊して町内を回ってみたら、次々と興味深い史跡と出会えた。しばしば来る人でもこの町の魅力を知らないでいる人はまだ多いのではないか。

 

[情報]菰野町役場
〒510-1233 三重県三重郡菰野町大字菰野1418
TEL:0593-93-1123

 

 

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