マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
三重県美杉村 |
緑と水の饗宴、思わず深呼吸 歴史を彩った、北畠氏ゆかりの村
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清らかな山里に感嘆の声
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山紫水明の地、美杉村 |
つづら折りの坂をのぼって君ケ野ダムに出た。堰堤から上流を眺めると満々とたたえられた湖面に周囲の山々が美しい影を落とし、下流ではいま通り過ぎてきたばかりの村々が箱庭のように見下ろせた。最初に訪れたときは桜の花が見事だったが、いまは杉林の深い緑が目にやさしい。
村営の宿泊施設「レークサイド君ケ野」で早めの昼食をとることにした。平日だったせいか、利用者は他にいなかった。しかし、ここには展望風呂も併設されており、村人たちにとっては絶好の憩いの場となっているようだ。
食事をすませて一休みしていると、多くのお年寄りたちでにぎわい出した。聞けば、地元の小学校を戦後に卒業した人たちの同窓会だとか。それまで静かだった館内が急に華やいだ雰囲気に包まれてきた。
ダムのある八手俣川をさかのぼると、道路の右手に北畠神社があった。同社は寛永年間(1624-1644)に創建されたものだが、南北朝に分かれた動乱の時代、南朝方に味方した北畠氏が本拠を置いたところだ。祭神としてゆかりの北畠顕家(あきいえ)、顕能(あきよし)兄弟と、その父北畠親房(ちかふさ)を祭っている。
訪れたとき、境内では社務所を兼ねた木造の立派な施設が造られていた。休憩中の大工さんに「やりがいのある仕事ですねえ」と声を掛けたら、「そうよ、わしらの腕の見せどころよ」と言って笑った。その作業場の前を通って奥の方へ行くと“花将軍”と言われた顕家の銅像と顕能の歌を刻んだ石碑が建てられていた。
彼ら兄弟の父親、北畠親房は南朝の忠臣としてよく知られ、南朝の正当性を記した『神皇正統記』の著者としても名高い。北畠氏はその後もここを本拠に伊勢国司として生き抜き、付近一帯に強大な勢力を誇るようになる。8代具教(とものり)のとき、居城としていた大河内城(松阪市)を織田信長に攻められ、その二男信雄(のぶかつ)を養子にして和議を成立させたものの、後に一族は暗殺されて約240年続いた歴史の幕を閉じた。
居館にあった庭園はいまも境内に残され、国の史跡名勝に指定されている。これが造られたのは7代晴具のときと言われ、背後の山側を林泉庭園、前の谷側を枯山水で構成した名園である。築造当初の手法がほぼ完全な形で残されているのは全国的に見てもめずらしく、室町時代を代表する名園の一つとして注目されている。
この神社には以前来たときにも立ち寄っているが、山深い地に立て篭もったところで、北朝方にとっては痛くもかゆくもなかったのでは……と思ったものだ。それというのも、この村があまりにも遠くに感じられたからだ。が、今回訪ねてみて、その考え方を改めさせられた。
いまは久居市の方から入ってくるので実感しにくいが、かつては伊勢と大和とを結ぶ交通の要衝に当たっていた。後の伊勢本街道がこの地を通っており、ちょっと上流にはその常夜灯や道標なども残されていた。北畠氏の依った美杉村は大和へ出る格好の地でもあったのだ。
北畠神社の裏手の山がその居城、霧山城のあったところだ。頂上まで歩いて30分ほどとのことだったので、ハイキング気分で登ってみることにした。山道の両側にはよく手入れされた杉の美林がどこまでも続いている。
実際に登ってみると、かなりの険しさだった。額に玉のような汗が吹き出してくる。頂上かと思ったところは鐘つき堂のあった場所で、天守台の跡はさらに向こうの山の頂きにあった。
山頂の平地には何本もの老松が茂り、その脇に「霧山城址」と彫られた碑が建てられていた。西方には伊賀や大和の連山までが望め、東方はるか彼方には伊勢平野も見下ろせた。この地に城が築かれたのは興国4年(1343)のことである。
山を下り、近くの美杉ふるさと資料館をのぞいてみた。北畠氏の歴史についても紹介されていたが、その中に「信長の野望尽きることなく、南勢の諸城を破壊」という一文が印象に残った。地元の人たちの目から見れば、信長は一般に言われているような英雄とは思えなかったにちがいない。
ここへ来る途中、川の中に青竹を組み、白い紙切れを付けた奇妙な飾り物を見掛けた。帰りがけに居合わせた老人に尋ねてみると、「へい(幣)と言ってな、富士の浅間さんを祭ったもの。あの竹が流されると川で泳いでもいいことになっとったんで、子供のころはこっそり倒して早く流れてくれてゆくのを願ったもんよ」と言って目を細めた。一瞬、老人の表情にいたずら盛りの少年時代がよみがえってきたようにも見えた。
資料館にはフィールドアスレチック「風雲児霧山」や木工を中心とした体験施設「創作館」も併設されていた。ここ多気(たげ)地区は北畠氏ゆかりの地であり、後には街道の宿場として栄えたところでもある。いまも同村観光の中心となっており、見どころ遊びどころに事欠かないようだ。
村内を流れるもう一つの川、雲出川(くもずがわ)に沿って上流を目指した。川はやがて糸のような細い谷川となり、途中では野猿の群れにも出くわした。その名の通り、川上地区は雲出川源流の村である。
ここには北畠氏の守護神とされ、後には藤堂藩主も崇敬したという川上山若宮八幡神社があった。背後にひかえる修験業山を神体山に、うっそうと茂る森の中にたたずんでいる。ここまで来る参道の両側にはおびただしいほどの石灯篭が並んでおり、その多さと信仰の篤さに感心させられたものである。
社前で偶然、若い神主さんにお会いした。彼は「若宮八幡宮としては日本最古の神社です」と言い、「川上で生まれた弥禄(みろく)さんもここの氏子でした」と教えてくれた。剣の達人、塚原卜伝(ぼくでん)も修業したという「みそぎの滝」と呼ばれる滝もあるそうだ。
参拝をすませた後、社殿の奥に回って滝を見てゆくことにした。落差はそれほど大きくなかったものの、前夜の雨を集めてかなりの水量だった。滝の前には注連縄が張られ、周囲は清浄な雰囲気にあふれていた。
川上地区へ来る気になったのは、弥禄の生家を訪ねた折、八幡神社へ寄る時間がなかったこともある。が、それともう一つ、この最奥の谷が「アマゴの里」と呼ばれるアマゴの宝庫でもあったからだ。谷沿いには数軒のアマゴ料理を出す店があり、わざわざここまで足を延ばす観光客も多い。
そのうちの一軒で一休みすることにした。谷を見下ろす眺めのいい座敷で、アマゴ料理に舌鼓を打った。ぜいたくなひとときに、相棒との間で話がはずんだ。
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