マイタウン(MyTown)| 愛知の本専門古書店
マイタウン|東海地方(名古屋・愛知・岐阜・三重・静岡)の郷土史本(新本・古本)専門店マイタウン|東海地方(名古屋・愛知・岐阜・三重・静岡)の郷土史本(新本・古本)専門店

静岡県細江町

“お姫様”の歩いた奥浜名の町 足元にいまも転がる歴史のかけら

町の新名所、気賀の関所
姫街道にも監視の目

 旅をするのは楽しい。その楽しさの一つに、旅先で得る知識がある。関所があると聞いてはいたが、ここが箱根・新居(今切)と並ぶ「東海道三関」の一つに数えられるほどのものだったとは――。

 その関所は役場近くにあった。平成2年にふるさと創生事業で造られたそうで、旅人などを調べる本番所や向番所、あるいは遠見番所、制札場などの施設が復元されていた。平日なのに訪れる人は結構あり、さすが三関の一つだけのことはある。

 気賀関所の“関守”は明治2年に廃止されるまで、旗本の近藤家が12代約250年にわたって担当したそうだ。関所と言えば「入り鉄砲に出女」という言葉がすぐ浮かぶように、ここでも江戸を防衛する目的で、通行する人々に監視の目を光らせていた。そうした彼らの仕事ぶりは本番所などの内部に等身大の人形で再現されているのだった。

 東海道は浜名湖の南側を通っていたが、そのバイパス“本坂越え”は見付宿(磐田市)から浜名湖の北を回って御油宿(豊川市)へと抜けた。この道が別名“姫街道”と呼ばれるのは、新居の難所を避けて姫君をはじめとする女性たちが多く利用したことによるが、もともとはひなびた田舎の道を意味する「ひな街道」から来たとする説もある。気賀のあるここ細江町は姫街道のちょうど中ほどに当たっていた。

 実際に関所の置かれていたのは、いまあるここではない。もう少し東、姫街道の通称「四つ角」と呼ばれる地だった。そこにはかなり改築されたとはいえ、いまも切妻破風造りの本番所が残されているそうだ。

 一通り見終えて一休みしていると、先ほど切符を売っていたおばちゃんが「もう一つ、面白い関所があるよ。行ってみるかね」と声をかけてくれた。そこはこれから行こうと思っている資料館のそばにあるらしい。「どんなのですか」と尋ねたら、笑いながら「言わぬが花かな」との返事だった。

 

藺草にしのぶ先人たちの知恵
銅鐸出土地としても注目

 なるほど、これは面白い。細い道をさえぎるようにして、ムシロ1枚を垂らしただけの粗末な“関所”。そして脇に「犬くぐり道」の立て札があった。

 気賀の関所ができて一番困ったのは付近の住民たち。そこで近藤氏はこの裏道を造り、ムシロの下をくぐれる犬なら通行一切お構いなし、と粋な計らいをした。村人たちは喜びはいつくばって通り抜けたそうだが、さすがに気位の高いお侍さんはまねする者がいなかったとか。

 姫街道歴史民族資料館も多くの知識を与えてくれた。1メートル前後もある立派な銅鐸がいくつも展示されているのには驚いた。まさにゴロンゴロンといった感じで、細江町は銅鐸のふるさとでもあったのだ。

 そしてもう一つ興味を引いたのは、この町がかつては藺草(いぐさ)の本場であったこと。宝永4年(1707)、大地震で村の大半が湖水に浸り、米がまったくとれなくなってしまった。時の近藤家6代用随(もちゆき)は塩田にも強い藺草の苗をわざわざ豊後(大分)から取り寄せて奨励、これが効を奏して“遠州表”として全国に知られるまでになった。まさに、災いを転じて福となす、の好例である。

 資料館のすぐ前に細江神社があり、その境内には、村人たちが用随を神として祭った藺草神社もあった。東へ出ると一軒の古風な旅館を見つけ、今夜の宿を予約しておくことにした。何とそこが近藤家の陣屋のあったところで、藺草を試験栽培した苗床があるのを知ったのも、翌朝になってからのことだった。

 細江神社を中心とする一帯はかつての気賀宿があったところ。町の中心部を“姫街道”ならぬ国道362号が走っていて騒々しい。町並みに昔の面影はないかとしばしあたりを歩いてみたが、それらしいものはどうやら残されてはいないようだった。

 

桜の花の下、華やかに姫様道中
おや?服部小平太の墓

 さて、今日は地図を片手に、町内全域の姫街道を歩くことに。気賀の四つ角がかつての関所のあったところ。毎年4月の第一土、日曜の両日には姫様道中がにぎやかに開催され、豪華な衣装をまとったお姫様が腰元や奴など百数十人を従えて町内を練り歩くそうだ。

 東へしばらく行くと都田川と井伊谷川が合流し、その名も落合橋という橋が架かっている。このすぐ下流はもう浜名湖。川の水面ではカモやウがのんびり羽を休めていた。

 街道は国道を離れて刑部城跡や宗安寺跡を通り、やがて服部小平太という人の墓の前へ。どこかで聞いたことのある名前と思っていたら、桶狭間の戦いで今川義元の首を取った武将だった。天正15年(1578)、共も連れずにこの地を通りかかったとき、待ち構えていた者にあえなく殺されてしまったとか。

 一里塚、千日堂、六地蔵、秋葉灯篭と、街道に沿って史跡が点々と続く。いずれも旅人たちの目を楽しませ、あるいはまた、足をとめさせたゆかりのもの。道の両側にはみかん畑が広がり、歩いているだけでのどかですがすがしい気分になってくる。

 やがて旅人を送り迎えしたという「曲がり松」のあるところまで来た。松は昭和49年に枯れ、いまあるのは2代目だそうな。その脇に立てられた石碑には「別るるはまた逢ふはしよ月の友」の句が刻まれていた。

 細江神社のあった気賀からここまで、距離にしておよそ4キロほど。ぶらぶら歩いてきて1時間半ほどかかったことになる。姫街道は恰好のハイキングコースであり、どこかにレンタルでもあるのか、サイクリングを楽しむ人たちもいた。

 

昔の旅の苦楽をしのびながら
古刹に名園「満天星の道」

 同じ道を急ぎ足で引き返し、今度は三ヶ日方面へ。昨日歩いたときには気付かなかったが、道の左側に「獄門畷(なわて)」というと恐ろしげな名前の供養碑が立てられていた。近くにあった堀川城が徳川家康に落とされ、ここで700人近い城兵が打ち首となって、その首をさらされたとある。


名園「満天星の庭」のある長楽寺
名園「満天星の庭」のある長楽寺
 長楽寺へも足を延ばしてみた。およそ1200年ほど前に創建された真言宗の古刹で、小堀遠州の作と言われる「満天星(どうだん)の庭」が見事だった。その庭の一番高いところに立って南を見ると、本堂の屋根越しに浜名湖がかすかに望めた。

 こちらも街道に沿って道祖神や馬頭観音などがあった。道は次第に上り坂になってゆく。そして小引佐と呼ばれるところはこれまで来た中で一番見晴らしもよく、浜名湖や東名高速の浜名湖橋も望める景勝の地だった。

 街道脇の薬師堂に手を合わせ、しばらく進むと「姫岩」という平らで大きな岩があった。昔は近藤家の家臣がここまで出向き、大名やお姫様に湯茶の接待をしたところだとか。すでに昼近くになっており、持ってきた弁当をこの岩の上で広げることにした。

 これから道はいよいよ険しさを増すが、石畳の道が残されていて古道の雰囲気をよく醸し出している。吹き出す汗をぬぐいながら、細江町と三ヶ日町との境である引佐峠にやっとのことで到着した。昨日泊まった宿の奥様は三ヶ日から嫁いでこられたそうだが、「向こうは三河との結び付きが強く、こちらへ来てあまりにも環境が違っていたのにはびっくりしました」と語っておられたのを思い出した。

 三ヶ日側の坂はまたの名を「象鳴き坂」とも呼ばれた。江戸へ向かった象も悲鳴を上げたと伝えられているところ。引佐峠は姫街道の難所の一つで、それだけに旅人たちも難儀させられたことであろう。

 峠にたどり着き、ようやく町内を踏破したことになる。ゆかりの史跡などもよく残されており、独り歩きではあったが少しも退屈しなかった。今回はまさに本格的な「街道散歩」となったわけだが、それだけに、流した汗がいつまでも心地よく感じられた。

 

[情報]細江町役場
〒431-1305 静岡県引佐郡細江町気賀305
TEL:053-523-1112

 

 

愛知の本専門古書店
MyTown(マイタウン)
E-Mail:こちら
〒453-0012 名古屋市中村区井深町1-1(新幹線高架下)
TEL:052-453-5023 FAX:0586-73-5514
無断転載不可/誤字脱字等あったら御免