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岐阜県関ヶ原町

大河ドラマで意気上がる歴史の町 「天下分け目」の関ヶ原を行く

三成の陣地、笹尾山へ
ドラマ夢想して古戦場巡り

 「こんな狭い所へ両軍合わせて15万という兵がよくも集まったものね」
 「まさに天下分け目の戦いだったんだよ」

 西軍の将、石田三成の陣した笹尾山。東京から来たという老夫婦は周囲の景色を感慨深げに見回していた。山に挟まれた目の前の小さな盆地を新幹線や名神高速、国道などが寄り添うように通り抜けている。

 「あの山が松尾山、すると手前が天満山か。そして正面に見えるのが南宮山……」
 「手前の田んぼや住宅などのある平地が戦場となったところなのね」
 「あっ、いま見てきた決戦地の石碑も見えるよ」


関が原合戦での東西両軍の配置図
関が原合戦での東西両軍の配置図
 二人は指をさしておたがいに確認し合っている。ここからは両軍の布陣ぶりが手に取るように眺められた。先ほど歴史民俗資料館で仕入れてきたばかりの知識が現実の風景の中に重なって見えてくる。

 笹尾山から南の松尾山まで、西軍諸将の陣所が続く。さっそく陣中見舞いウオーキング。NHKの大河ドラマで盛り上がっただけに、そこへ行く案内板などもよく整備され、陣所跡にはのぼりも立てられている。

 “裏切り中納言”小早川秀秋の陣した松尾山はかなり急な山で、たどり着くのに4、50分もかかった。彼は眼下で繰り広げられる戦いぶりをどのような思いで見つめていたのか。戦後、家康から第一の功労者として岡山51万石を与えられるが、その2年後、大谷吉継の亡霊にさいなまれながら21歳の若さで狂い死にするのが哀れですらある。

 

関ヶ原の戦いはなかった!?
義理を貫いた大谷吉継

 先ごろ、歴史学者・山室恭子さんの「夢まぼろしの関ヶ原」という面白いリポートを読んだ。それによると、関ヶ原の戦いはなかった、というのだ。家康に感想を聞けば「セキガハラ? ナンノコトデアルカ」と言われてしまいかねない、とか。

 山室さんの調べによると、家康はその戦いを「山中の一戦」とし、存命中に一度も「関ヶ原」を使っていないそうだ。この戦いに勝ったものの、大坂にはまだ秀頼が健在だった。息子の秀忠のころ、一連の経過を振り返って「山中の戦い」を「天下分け目」と認識するようになり、それにふさわしい語義・語感を持つ地名「関ヶ原」が持ち出されてきた、というのである。

 なるほど、いまは同じ関ヶ原町内だから違和感はないが、当時、東山道(後の中山道)に沿うようにして東から関ヶ原、松尾、藤下(とうげ)、山中の諸村があった。激戦が展開されたのは関ヶ原村よりも西の松尾、藤下、山中の一帯だ。山室さんは主戦場についても、家康は三成の方より宇喜多秀家らと戦ったこれら地域の方と思っていたのではないか、とも述べられている。

 松尾山のふもと、山中地区を訪ねてみた。旧中山道の北側に若宮八幡宮があったが、その参道はJR東海道線を横切る危なっかしいものだった。社殿脇の高台が大谷吉継の陣所跡で、違い鷹羽紋ののぼりが風にはためいている。

 その墓は裏手の山の中にあった。彼は三成の懇願により死装束で加勢した。寝返った小早川らの攻撃を受けてあえなく自刃することになるが、五輪塔の周りでしきりに鳴くセミの声が読経でもしてくれているかのようにも聞こえてくる。

 こちらの方では宇喜多、大谷などが陣取り、東軍の福島正則、藤堂高虎らと戦った。山室さんは向こうを主戦場と見るようになった理由の一つとして、三成を破った黒田家が生き残ったのに対して福島家は滅びてしまったこともあげられていた。

 

もう一つの「関ヶ原」
古代揺るがせた壬申の大乱

 天下分け目の合戦はこの町でもう一つ起きている。「壬申の乱」と言われるのがそれで、古代史上まれに見る大乱だった。

 天智天皇の死後、その子大友皇子(おおとものおうじ)と天皇の実弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)は皇位継承を巡って対立することとなった。弘文元年(672)、吉野に身を引いていた大海人皇子は美濃の同志のもとに逃れると、東国の兵を集めて朝廷側に対抗した。このとき、美濃の軍勢約3000はいち早く不破の道をふさぎ、戦いを有利に展開するきっかけを作ることになる。

 やがて両軍は藤古川をはさんで対決、近くを流れる川の水は血潮で黒くなったと言われて黒血川の名も残る。戦いは東軍が押しに押し、瀬田(大津市)でも勝利して大友皇子を自害に追い込んだ。勝った大海人皇子は第四十代天武天皇となり、敗れた大友皇子は明治になって弘文天皇と諡(おくりな)されることになる。

 乱後、藤古川東の坂を上り切ったところに関所が設けられた。不破関は後に伊勢の鈴鹿関、越前の愛発関(あらちのせき)とともに「三関(さんげん)」として非常時に備えることになる。現在、跡地には資料館が建てられているほか、代々が関守だった産婦人科医院の三輪家には記念碑類や歌碑、「関月亭」と名付けられた庵なども建てられていた。

 先に、家康が最初に陣を張った桃配山を見てきた。その山名の由来は天武天皇が吉野から逃れてきたとき、縁起のよい桃の産地と知って村人らに桃を配ったことから来たものだった。天皇の仮りの宮は桃配山のすぐ近く、野上の里に置かれたそうだが、訪ねてみると草深い地にそれを物語る一本の立て札があるだけだった。

 藤古川を少し南に下った黒血川そばの丘陵地に、弘文天皇の御陵候補地があった。美濃出身で東軍の将だった村国男依(むらくにのおより)が天皇の御首を戴いて仮りの宮に凱旋、その後、ここに埋葬したと伝えられている。中山の若宮八幡宮は弘文天皇を、松尾の井上神社は天武天皇を祭神としており、両地区はいまもなお仲が悪いとか。

 

えっ、史跡が発展の妨げ?
神秘の世界、関ヶ原鍾乳洞

 関ヶ原は歴史好きに興味の尽きない町だ。どこへ行っても史跡と出会い、持参したフィルムがなくなってしまった。売店のおばさんに「面白い町ですねえ」と言うと「そうばかりでもないよ」と意外なことを口にした。

 史跡に指定されていて、工場誘致などもできない。建物も制限される。かといって観光で食べて行けるほどのものでもなく、史跡が逆に町の発展を妨げているとか。聞いてみなくては分からない、そんなこともあったのか。

 フィルムを仕入れると、話には聞いている鍾乳洞へ行ってみることにした。途中に自然観察をテーマとした「エコミュージアム関ヶ原」や合戦資料館「関ヶ原ウォーランド」などもあった。1泊2日の旅ではとても見切れないほどだ。

 鍾乳洞の入口前に「玉倉部(たまくらべ)の清水」と呼ばれる泉があった。東征の帰り、日本武尊(やまとたけるのみこと)は賊を平らげようと伊吹山へ向かうが、その毒霧にあって病に倒れてしまう。そのときに飲んでよみがえった清水がこれなのだそうで、歴史ばかりかはるかに遠い神話にまで彩られていた。

 鍾乳洞は思っていたよりも小さなものだった。全長518メートル、ゆっくり歩いても20分ほど。それでも洞内には鍾乳石や石筍(せきじゅん)の垂れ下がった奇観、岩に残された古代生物の化石、清水や滝などがあり、その一つひとつに「不老滝」「玉華殿」「金剛窟」「巨人の足」などといった名称が付けられているのだった。

 暗い洞内はひんやりして気持ちがよかった。歩いていて善光寺などの胎内巡りを思い出してしまった。小さいとはいえ、神秘的なトンネルは不思議な世界だった。

 

[情報]関ヶ原町役場
〒503-1501 岐阜県不破郡関ヶ原町大字関ヶ原3210-1
TEL:0584-43-1111

 

 

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