マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
三重県河芸町 |
海あり山あり、住むには一番? 潮の香漂う自然と歴史の同居する町
|
南国ムードのマリーナ
|
マリーンスポーツも楽しめる「マリーナ河芸」 |
そんな海辺ではノリソダを立てる作業が始まっていた。それにしても随分深くまで埋め込むものだ。強力な水圧を利用しているのか、機械でいとも簡単に穴をあけ、もう一人の人が手際よく棹を差し込んでいく。
居合わせた老人は「いまは水中ポンプがあるから楽なものよ。一昔前までは手作業で難儀な仕事だった」と言い、「ここで採れた海苔は浅草へ持って行って、立派な浅草海苔になってくれるよ」とそのからくりまでを教えてくれた。
海辺には若いカップルもいた。釣りを楽しむ人たちもいた。かたわらにできた干潟では先ほどから鳥たちがしきりに何かをついばんでいた。
海に沿うようにして、さらに南の河芸漁港へ。こちらは同じ町内の海辺でも、打って変わってひなびた感じだ。漁船はいっぱい停泊しているものの、閑散として辺りに人影すら見当たらない。
やっと通りかかった人を見つけて話しかけると、「今日は土曜日で休みだよ」とのこと。なるほど、出荷の関係でこちらでは日曜日が平日になるのか。この人は哀れに思ったのか、港のアイドルを紹介してくれることになった。
いた、いた。岸壁に泊められた漁船のロープに、1羽のウが羽根を休めていた。もらったばかりのアジを差し出してやると、のたのたと近寄ってきて手渡しで食べる。鳥というのは不思議なもので、どんなに意地悪く渡してやっても、頭の方から飲み込んでゆくものらしい。
「左の羽根を骨折していて、飛ぼうにも飛べないんだよ。ここに居着いてしまい、みんなからかわいがられてる。えさの魚がないときには魚屋へカレイを買いに行かされるほどで、これでいてなかなかの贅沢者だよ」
ウの“うーちゃん”としばらく遊んだ後、港の周りを散策してみることにした。海の中をのぞくと、小さな魚がいっぱい群れていた。干されている漁網は魚を捕る網なのか、それとも海苔養殖のためのものなのか。
港の内陸部には魚の加工場が何軒もあった。そのうちの一軒をのぞいてみると、北海道産の冷凍魚を中心に扱っていた。港に水揚げされるイワシやコウナゴなどは隣の津市へ持って行かれ、こちらの工場で扱うのはもっぱら冷凍物ばかりだとか。
景気はあまりよくないらしいが、港は秋の日差しを浴びてのどかだった。路上に横倒しになった犬がおり、てっきり車にでもはねられて死んでいると思ったが、近付くとむっくりと起き上がってきた。陸に引き上げられた船の下でも犬が気持ちよさそうに寝そべっているし、どこからかやってきた野良猫は魚のご相伴に預かれるのか丸々と太っていた。
海寄りを南北に旧道「伊勢街道」が通じている。狭い道の両側には商店や民家がぎっしり建ち並び、車はすれ違うのにも苦労するほど。町はかつて宿場としてにぎわったそうだが、この細い道をお伊勢参りの人たちが行き交った時代もあったのか。
河芸漁港の近く、伊勢街道そばに八雲神社はあった。ここへわざわざ立ち寄ったのは、豊漁と安全を願う“ざる破り神事”と呼ばれる奇祭の伝わる神社、と教えられたからだ。それは毎年7月15日の夜に行われ、町の無形民俗文化財にも指定されていた。
神社はこんもりと茂った、いい森の中にあった。しかし、社殿そのものは小ぢんまりとした、何の変哲もないものだった。どなたが祭られているのかよく分からなかったが、「八雲立つ」は出雲に掛かる枕詞であることから推察すると、出雲系の神様と関係があるのだろうか。
時は戦国時代のころのこと。近江源氏の末裔という三井治郎左衛門高次一族が転戦のすえ、ここ一色地区にたどり着いた。空腹のあまり「よまし麦」を奪い合うようにして食べたことから、このめずらしい神事は始まったらしい。
祭り当日は下帯姿の海の男たちがどっと繰り出すそうだ。神前にお供えした饌米の入った竹ざるを奪い取ろうと、歓声を上げながら激しいもみ合いを展開する。裸男たちは寄ってたかって奪い合い、最後は竹ざるを引きちぎるようにして破る勇壮な祭りだとか。
参拝をすませた後、石段に腰掛けて一休みしていた。周りの社叢からはやかましいほど、野鳥のさえずりが聞こえてくる。それがときには夢想していた裸男たちの歓声のようにも思えてくるのだった。
町の中央部にある本城山青少年公園にやってきた。バーベキューを楽しむ大人のグループあり、ソフトボールやアスレチックに興ずる子供あり。最初に出会った奥さんが「ゆったりのんびり」と表現した、そんな暮らしぶりを垣間みるような感じがしないでもない。
河芸町はかつて伊勢上野と呼ばれていたそうだ。その上野城のあったところがこの山で、城は信長の弟信包(のぶかね)が津の仮城として築いたのに始まる。天正8年(1580)津城の完成とともに、その信包に代わって分部光嘉が城代となり、後には1万石で独立している。
山とは言っても標高はわずか30メートルほどだが、頂上には城に代わって3階建ての展望台が造られていた。そこから町を望むと、東には建て込んだ住宅の向こうに伊勢湾が見え、ひるがえって西にはひだのように続く丘陵地の彼方に鈴鹿連峰が一望できた。ここからなら、町の様子も手にとるように分かる。
2階の展示室には城跡から発掘された出土品などが並べられていた。その中の一つ、百二、三十の年輪が読み取れた松の切り株には「華林廟にあったもの」との説明書きがある。その廟は分部光嘉を弔ったものらしい。
殿様のお墓とあれば、ちょっと足を延ばしてみたくもなってくる。廟は近鉄線すぐ脇の畑の中にあった。「分部」とはめずらしい苗字に思えたが、近くにいた農婦の話によると、この辺りには結構あるらしい。
その光嘉が河芸町の生みの親ということになろうか。先ほど訪れた上野城も、信長の命により彼が普請奉行を務めている。城主となってからは町並みや街道の整備にも力を入れ、この町の発展の基礎を造った。
いまから400年以上も前の人だが、農婦の語る言葉には親しみすら感じられる。廟と呼ぶにはいささかお粗末な気がしないでもなかったが、住民たちの間にはそんな気持ちが息づいているのだろう。立ち話をするわずかなひとときにも、すぐ脇を電車がひっきりなしに行き交っていた。
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|