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長野県上松町

木曽の名物、ナンチャラホイ 八景のうちの三つ、上松にあり

目を見張る岩と水の饗宴
木曽路を彩る第一の奇観

 木曽は名古屋との縁も深い。徳川家康がわが子義直を尾張藩主にすえたとき、そのお祝いとして木曽一帯をプレゼントした。以来、尾張は木曽の山々からはかりしれない恩恵を受け、また木曽の人々と緊密な交流をはぐくんでゆくこととなる。

 現代の木曽路、国道19号沿いに建つ臨川寺。山号を寝覚山と号し、名勝・寝覚の床の入口にも当たっている。寛永元年(1624)、その義直が木曽の代官であった山村伊勢守良勝に命じて建てさせた臨済宗の寺である。

 境内から寝覚の床が手に取るように見下ろせた。木曽川の両岸は浸食された奇岩で埋め尽くされ、花崗岩の白さと清流の青さが美しいコントラストを描き出している。変化に富んだ岩に見とれていると、激流さかまいたかつての木曽川の姿も夢想されてくる。

 名称の由来は浦島太郎の伝説から来ているそうだ。浦島さんは諸国をさまよい、いつしか訪れたのがここ。ある日ふと乙姫様からもらった玉手箱を開けたところ、まるで夢から覚めたように300歳の老人になってしまったとか。寺は別名「浦島寺」とも言われているそうで、宝物館には浦島さんの残したすずりや釣りざおなども展示されていた。

 急な坂道を伝って川原に下り立った。大きな岩にはその特徴から「屏風岩」とか「腰掛け岩」「亀岩」などの名前が付けられていた。少し上流部には松の緑濃い大きな岩があり、そこには浦島さんを祭る浦島堂も造られているのだった。

 寝覚の床は木曽八景の一つに数えられ、木曽路きっての景勝の地。町を通り過ぎるドライバーの中にも、その名に引かれて車を止めてゆく人も多い。かつては江戸へ参勤する大名らも仏前で手を合わせ、石と水の織りなすこの絶景に目を細めたそうである。

 

森林浴、ここから始まる
赤沢は日本を代表する美林

 天を突くように真っ直ぐに伸びた太い幹、触ると木のぬくもりが伝わってきそうな優しい木肌。大森林の中はしーんと静まり返り、木々の放つ香気に思わず深呼吸をしてみたくなってくる。

 ここは森林浴発祥の地、赤沢自然休養林。昭和57年、この森を舞台に全国初の森林浴大会が開かれ、いまではその名所となった感すらある。毎年4月から11月の上旬にかけ、おいしい緑の空気を満喫しようと、10万人にものぼる人たちがやってくる。

 コースは七つも用意されていた。いま歩いているのは丸葉橋から森の中に入った「駒鳥」と名付けられたコース。周りには樹齢2、300年にもなるヒノキやサワラなどが林立し、約2キロの山道を1時間ほどかけてゆったりと散策することができる。

 こうしたコースの一つには車いすの人でも気軽に入れる「ふれあいの道」(2、1キロ、所要時間約1時間)もあった。そこでは全線にわたって段差をなくし、橋と舗装路で結ぶきめ細かな配慮も。各コースのスタート地点となる赤沢渓谷の入口にはレストハウスや渓流プール、森林浴資料館などの施設もあったが、そういえば、かつての森林鉄道も復活してチビッコたちの間で人気を呼んでいた。

 心地よい汗を流したあと町中の宿に入ると、玄関に見事な美林の写真が掲げられていた。近くのお豆腐屋さんが赤沢の魅力にとりつかれ、四季を通じて撮り続けておられるとか。夕食には少し間があったので、その人、井上鐸郎さんを訪ねてみることにした。

 あるある、朝もや煙る森に光の差し込む荘厳なシーン、枝の雪がどさっと落ちる瞬間をとらえたもの。井上さんは「夏場なら夜の2時ごろに家を出ますよ」と言い、「霊気漂う森の中を歩くのは最高の気分」とうれしそう。そんな写真の一枚一枚を見せてもらっていると、歩いたときには味わえなかった森の様々な表情を教えられるようでもあった。

 

ひなびた宿場の風情漂う
沓掛の一里塚、いまに

 上松に宿場の面影を訪ねた。商店街の大通りを脇に折れると、道のかたすみに「江戸より七十二里」「京へ六十五里」と彫られた一里塚の碑が建てられていた。道はゆるやかなカーブを描きながら北の方へと延びている。

 宿場というと本陣や脇本陣など風格あふれる建物を想像しがちだが、ここにはそうした立派なものがあるわけではなかった。たびたびの火災に遭い、すっかり様変わりしてしまったようだ。しかし、両側にこまごまと民家の建ち並ぶ様子は、かえってひなびた宿場の風情を漂わせているようにも思えてくる。現在、町の中心部はJR上松駅の方に移り、わずか100メートルにも満たないここだけが、時代の流れから取り残されたようにひっそりとたたずんでいた。

 「いまとなっては町並み保存もむずかしいけど、この町にはねえ、一里塚が4カ所もありましたよ。旅人たちにとってここを通り抜けるのは一番の長丁場だった。その一つ、沓掛の一里塚はいまでもちゃんと残っています」

 すれ違った人とあいさつを交わしたら、町内にある四つの一里塚をていねいに説明してくださった。そして、宿場の後ろにある山が愛宕山で上松城のあったところだとか、木曽義元に始まる木曽家の家系などをとうとうと解説され始めた。あまりの詳しさに脱帽していると、昨年まで県の文化財指導委員をされていた山下生六さんという方だった。

 宿場には義元の二男玉林が天正10年(1582)に創建した、その名も玉林寺と言う寺もあった。境内にある4本のクロマツはいずれも形の良い盆栽をそのまま大きくしたようなすばらしい枝ぶりで、しかも相当の樹齢を重ねてきたものと思われる。以前、だれかから「竜を描くときには松の古木を手本にした」と教えられたことがあったが、その木肌はまさに巨竜のうろこを思わせるに十分なものだった。

 現存する一里塚を見ようと、車で出掛けてみることにした。沓掛のそれは福島町との境近く、国道とJR中央線にはさまれるようにしてにあった。いまでは塚の上に馬頭観音が祭られていたが、このあたりでもこうして残されているのはめずらしいそうである。

 

芭蕉も一句、「かけはしや」
昔は崖の道、命がけの旅

 沓掛の地名は交通の難所とか分岐点によく付けられた名称だとか。一里塚のある辺りは福島町との境界になっており、かなりの上り坂である。その手前にあったのが有名な木曽のかけはしで、川沿いの急峻な崖に沿うようにして危なげな橋が架けられていたという。

 かけはしの手前に、対岸へ渡るアーチ型の橋があった。初めはてっきりこの橋が現代版のかけはしかと勘違いしてしまった。が、木曽のかけはしは木曽川に渡されたものではなく、崖の中腹を川と平行して行く桟道であった。

 対岸から見ると、その様子がよく分かった。このあたりは断崖でかけはしのあった川沿いぎりぎりのところを国道が抜け、そのすぐ上を中央線がトンネルで通過している。国道を支える2本の橋脚近くには、かつて橋を支えていたとみられる岩の一部も残されていた。

 かけはしも昨日見た寝覚の床や小野の滝とともに、木曽八景の一つに数えられている。が当時、旅する人たちにとっては「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなけりゃよい」とまで恐れられた難所で、命がけで渡らなければならないところだったとか。


現在の「木曾のかけはし」跡
現在の「木曾のかけはし」跡
 その橋のたもとには芭蕉の詠んだ「かけはしや命をからむ蔦(つた)かづら」の句碑が建てられていたそうだ。が、いまは対岸に移されている。この名所を歌などに託した文人は多く、かけはしの由来などを書いた解説板の脇には正岡子規の大きな石碑も新たに造られていた。

 天気に恵まれた今日は雪を抱いた中央アルプスの山々がひときわきれいに望めた。帰りがけ、木曽川の支流滑川をさかのぼってみることにした。この道は駒ヶ岳への登山道にもなっており、目の前に屏風のようにそびえる山々は神々しいほどまぶしく輝いていた。

 

[情報]上松町役場
〒399-5603 長野県木曽郡上松町駅前通り2-13
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