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岐阜県南濃町

岐阜県唯一、ミカンの産地 自然息づく養老山脈ふもとの町

いま羽根谷が面白い
治山治水を体験で学ぶ

 町内には至る所でミカンやカキがたわわに実っていた。山々の黄葉もいまが真っ盛り。こんなのどかでいいときに、この町を訪れたのは初めてである。

 その思いも平成6年にできた「さぼう遊学館」に入って一変した。南濃町は養老山脈の東麓に位置しているが、それだけに土砂災害との闘いの歴史でもあったのだ。資料館は羽根谷という谷の一つに造られており、山地の地質や土石流発生のメカニズム、その対策など、砂防の歴史を解説したユニークな施設となっていた。

 薩摩藩による宝暦治水やオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの話はよく知られている。しかし、それ以外にも木曾三川の大がかりな「川浚(ざら)え」や河原先の土砂を取り除く「州浚え」が行われていた。宝暦治水後も地元の人たちよってこうした工事は行われてゆくが、それとは別に薩摩や長州、岩国などの各藩が幕府から「御手伝い普請」を命じられていたとは知らなかった。

 遊学館の周りは谷に沿って公園化されている。すぐ近くには食堂や特産品売り場の入った施設もあった。その前で落ち葉を掃除中の人に「豊かな自然があっていいですねえ」と声を掛けたら、「この自然が時として牙をむくこともあるんじゃ」とのもっともな言葉が返ってきた。

 羽根谷の上流には巨石を積み上げた堰堤があった。デ・レーケの指導によって造られた砂防ダムで、ここのは明治20年に着工して翌年に完成している。それは城の石垣をもはるかにしのぐ頑丈な造りで、先人らの苦労のほどがしのばれてきた。

 下流は「羽根谷だんだん公園」と名付けられ、遊びや散策などの広場となっていた。土石流で流されてきた石を展示する「土石流の広場」や伏流水を上手に活用した「まんぼ」と呼ばれるこの地方特有の井戸も造られている。また、イベント広場やキャンプ場なども併設されていて、この町のアウトドアの中核施設となっているようだ。

 ここで人気を呼んでいたのが周辺一帯で行われるスタンプラリー。それぞれのポイントを回ると遺跡なども見られ、砂防の知識までが得られるようになっている。近代砂防発祥の地、南濃町ならではの遊びと学習を兼ねたハイキングコースでもあった。

 

ここにも薩摩義士弔う墓
13人、異国で無念の死

 ここは海津橋の少し下流、太田地区にある円成寺。どこにでもありそうな、小さな曹洞宗の寺だ。宝暦の治水工事で自刃した、薩摩義士13人の霊を弔う墓が祭られている。

 宝暦3年(1753)12月25日、幕府は薩摩藩に木曾三川の治水工事を命じた。同藩は家老の平田靭負(ゆきえ)以下約1千人を派遣、40万両という巨費と藩士80余人を失う犠牲を払い、同5年に完成させている。日本の治水工事史上、まれに見る難工事だった。

 工事はここ南濃町でも行われていた。羽根谷をはじめ山崎谷、徳田谷、志津谷などを改修し、それらの下流にある津屋川の浚渫も同時に進められた。町内ではこうした工事が19個所にもわたって行われているそうだ。

 墓は一段と高い石垣の上に祭られていたが、これは大正15年になって修復されたものだとか(県指定の史跡)。その前の解説板には犠牲となった13人の名前や法号、命日などが記されていた。いずれも「割腹」とあるのが悲痛である。

 度重なる事故に責任を取り、あるいは無理難題をふっかけられ、遠い異国の地で無念の死を選んだ人たち。以前、鹿児島出身の知人を近くの千本松原に案内したことがあったが、彼は「故郷にこんな大河はない。彼らの目には海のように映ったのではないか」とうめくようにつぶやいたものだ。そこ油島(海津町)では長良川と揖斐川が合流しており、最大の難所と言われた分流工事が行われていた。

 そのとき、彼を平田らが眠る桑名の海蔵寺へも連れていった。しかし、うかつにもすぐ近くのここ南濃町にもあるとは知らなかった。この寺では毎年4月、工事の最中に自刃した13人の遺徳をしのび、慰霊祭が盛大に行われているそうである。

 

眺め抜群「月見の森」
何段ある?一直線の階段

 城山地区には絶好の展望台ができていた。「月見の森」と呼ばれる一帯がそれで、平成5年に生活環境保全林整備事業の一環として誕生した。養老山脈の中腹に当たる。

 中段に設けられた広場には背の高い2層の櫓が建てられ、それには「山の灯台」の名が付けられていた。背後には山上へ向け、一直線に長い石段が続いている。一体全体、何段あるのか。よくぞ造ったという感じだ。

 意を決して登ることにした。途中、リタイア用に「まわり道」と書かれた案内板がある。数えながら登り始めたものの、息苦しさからとっくにそんなことは忘れてしまっていた。

 ほうほうの態で登り切った。そこは「月見台」と呼ばれる展望台になっていた。ステージのあるところを見ると、ここで野外コンサートなどの開かれることもあるのか。

 展望台からは濃尾平野が手に取るように見渡せた。手前に揖斐川が右に左にと、大きくくねって流れている。名古屋のセントラルタワーや一宮の138タワーも光って見える。遠くは御岳山や恵那山、白山までもが望める大パノラマだ。

 しばし絶景に酔った。これだけ広範囲に見渡せたら、夜景もきっとすばらしいにちがいない。夜景と言えば、夜には「山の灯台」と真っ直ぐに伸びた石段がライトアップされ、これがふもとから美しく眺められるとのことだった。

 先ほど「さぼう遊学館」で知ったスタンプラリーのコースはこちらの方にまで延びて来ていた。帰りがけ、元気な家族連れと出会ったが、これはかなりの健脚向きコースと言えそうだ。すれ違ったとき「がんばって」と声を掛けられたのはこちらの方だった。

 

高須の殿様、行基寺に眠る
一見の価値あり、松山の大楠

 養老山脈の中腹にある行基寺はモミジが色鮮やかだった。門前に、境内に、カメラを持つ人が。これはいい時期に来たものだ。


行基寺を鮮やかに彩っていたモミジ
行基寺を鮮やかに彩っていたモミジ
 その名の通り、寺は行基によって天平年間(729-749)に開かれた。南北朝時代に兵火で焼失したが、初代高須藩主の松平義行により再興されている。同藩は尾張の支藩の一つで、居城は揖斐川の対岸、海津町高須にあった。

 この寺は高い石垣に守られ、まるでお城のような造りだ。葵の紋の付いた山門は見上げるばかりの堂々たる構え。広い境内にはいくつもの堂宇が建ち並び、藩主の菩提寺としての威厳と風格にあふれていた。

 「ここへ来たら殿様のお墓へ参っていかなくちゃ」
 「ええっ、お墓もあったの」

 撮影に夢中だった2人連れがその手を休めた。誘われるように、その後についていく。小堂の裏手に「高須藩歴代墓」と書かれた標札が立ち、そこには立派な墓石が整然と並んでいるのだった。

 彼の話によると、この寺は万一の場合に備え、城として使用できるように造られていたとか。道理で高い石垣に守られ、構えも厳重だったわけだ。書院は藩主の別荘として使われることもあったらしく、ここからの眺めはさぞかし心を慰めてくれたにちがいない。

 次に松山地区の諏訪神社に足を延ばした。そこには樹齢1000年という大きなクスノキがあるとか。見つけ出せずに散々迷ってしまったが、やっと出会えたそれは社殿も小さく見えてしまうほどの巨木だった。

 すでに辺りは薄暗くなり、東の空に月が昇った。先ほど訪れた「月見台」のことが頭に浮かんだ。帰り道、振り返って見るとライトアップされ、石段は天にでも通じるかのように真っ直ぐに延びていた。

 

[情報]南濃町役場
〒503-0411 岐阜県海津郡南濃町駒野奥条入会99-2
TEL:0584-55-0111

 

 

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