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愛知県南知多町

名古屋から車で1時間、知多半島の先端へ 堪能、新鮮な海の幸と興味深い歴史

内海は唐人お吉誕生の地
“切り札”温泉にかける夢

 その女性は青空を背に、すっくと立っていた。和服姿のやさしい表情に、気品としとやかさがあふれている。開国のはざまでもてあそばれた悲劇のヒロイン、唐人お吉。

 お吉の像は海水浴場として有名な内海海岸の南端、内海川の河口近くにあった。彼女は天保12年(1841)船大工市兵衛・きわ夫婦の二女としてこの町で生まれている。彼女が4歳になったとき、家族4人は出稼ぎのため伊豆の下田へ移り住んだのだった。

 が、間もなく頼りとする父は病死、一家の苦労が始まった。お吉は芸者となって家計を助け、アメリカの初代総領事ハリスの愛妾となった。ハリスのもとを去ってからも「ラシャメン」(洋妾)と人々からさげすまれ、明治23年、下田の稲生沢川に身投げして50歳の生涯を閉じている。

 そのお吉も明治元年と同9年の2回、ふるさと内海に帰ってきている。すぐ近くの西岸寺には一家の戒名などを記した過去帳も残されているそうだ。お吉は幼いころに遊んだ白砂青松の浜辺を、どのような思いで眺めたことだろうか。

 像のすぐ前ではクアハウス「白砂の湯」ができていた。南知多町もふるさと創生資金などをもとに温泉を掘り当て、これまでの風光明媚な景色に加えて天然温泉という魅力まで付け加えた。新しい施設は早くも観光客誘致の目玉になった感じだ。

 これまでお吉の像は忘れられたように、駐車場の片隅にひっそりと建っていた。が、「白砂の湯」ができて、多くの人目を集めだした。国のためとは言いながら、開国の裏面史に泣かされた女性のはかない一生を、いまの人たちはどのような目で眺めているのだろうか。

 

豊浜で海の幸に舌鼓
抜群、羽豆岬からの眺め

 内海から海岸線に沿って豊浜へ。沿道には「活魚料理」「漁師料理」などと書かれた飲食店や民宿、旅館などの看板が立ち並ぶ。豊浜は愛知県下随一の漁港である。

 さっそく港の中央部にある、漁協直営の「魚ひろば」へ。この町の奇祭「鯛祭り」のタイを型取った大きな飾り物が屋上に乗せられている。中に入るとタイやヒラメ、カレイに大アサリ、クルマエビなど、近海でとれた生きのいい魚をはじめ、昆布やわかめ、塩干物からえびせんべいなどに至るまで、海産物が所狭しと並べられていた。

 「さあ、買った!買った! 安いよ、安いよ。うまいよ、うまいよ」

 威勢のいい売り込みに、訪れた買い物客の財布のひもも、ついつい緩みがち。1回りした後、近くの食堂で腹ごしらえ。3000円の海鮮定食を奮発したら、新鮮な海の幸が次から次へと出てきて大満足だった。

 さらに南下、知多半島の先端、師崎へ出た。その先にあるこんもりとした森の中には羽豆神社が祭られていたが、ここはまた、南北朝時代に南朝方の拠点として羽豆城の築かれたところでもある。城跡を示す碑の近くには立派な展望台が造られていた。

 この高みからは渥美半島や伊良湖岬、神島も驚くほど近くに見える。すぐ目の前には“東海の松島”とも言われる篠島や日間賀島、佐久島、それにいくつもの小島が点々と浮かんでいる。師崎港や町の様子もまるで手にとるように見渡すことができた。

 なるほど、こうして眺めていると土木関係者ならずとも、橋を架けたい衝動にかられてくる。伊良湖と鳥羽が思っていた以上に近い距離だ。はるかに望む太平洋は澄み切った大海原だが、逆に伊勢湾と三河湾は入口をふさがれた池か湖のようにも思えてくるのだった。

 

島内ぶらぶら、史跡めぐり
反骨の人、小刀屋に出会う

 師崎は漁港であると同時に、篠島や日間賀島、さらには伊良湖や鳥羽などとも結ぶ船の発着場でもある。目の前に横たわる篠島へ渡ってみることにした。高速艇でわずか十分の船旅である。


高台から望む師崎港
高台から望む師崎港
 島の周囲は6キロほど。島民の約8割は漁業関係者だそうだが、港で出会った老人は対岸を見やりながら「若い者はみんな出てってしまう。せめて橋があればなあ」とつぶやいた。住むに適した土地は限られているのか、民家や民宿、旅館などが肩を寄せ合うようにひしめき合っている。

 篠島はまた歴史に彩られた島でもあった。後村上天皇ゆかりの「帝の井」や知多新四国の札所にもなっている寺々、あるいは名古屋築城のために加藤清正が切り出したという「清正の枕石」など。ぶらぶら歩いていると様々な史跡に出会えるのもうれしい。

 帝の井は堂山のふもとの集落内にあった。天皇がまだ義良(よしなが)親王と呼ばれていたころ、乗っていた船が暴風雨に遭ってこの島に漂着、半年ほどをここで滞在されている。帝の井は親王が穿かれた井戸で、昭和37に愛知用水が海底パイプで通じるまで、島民の飲料水として利用されてきたという。

 篠島へ来たら、ぜひ訪ねてみたいところがあった。古城山妙見斎というお寺の跡だ。宝暦5年(1755)名古屋城下に住む商人、小刀屋藤左衛門は7代藩主徳川宗春の謹慎解除を幕府に直訴するが、その願いはかなえられずここへ島流しにされている。篠島は尾張藩の流刑地だったのである。

 彼の暮らしたという妙見斎跡は小学校の体育館になっていたが、その裏手に回ってみると、ネコの額ほどの地に石仏や墓石などが集められていた。その中の苔むした一つに、彼の雅号だった「湛水」の文字があるではないか。どうやら後世、門人たちが建てたものらしく、そこには彼の辞世が刻み込まれていた。

 

尾張の高野山、岩屋寺
霊場にお遍路さんの姿

 まだ時間に余裕があったので、豊岡インター近くの“尾張高野”岩屋寺へ足を延ばしてみることにした。霊亀元年(715)元正天皇の勅願により、僧行基を開山として創建された名刹。後に弘法大師が岩窟内で100日の山篭をして、奥の院を開いたとも伝えられている。

 そういえば、師崎近くの海中の岩の上に、弘法大師の立像が祭られていた。大師は三河から海を渡って知多半島に上陸されたとか。そのためもあってか、南知多町内には新四国めぐりの札所も多く、この寺も43番の霊場とされている。

 戦後、寺は尾張高野山として宗門から独立しており、総本山として100近い末寺や教会を有している。広い境内には本堂や経蔵、庫裏などの諸堂が建ち並び、参拝に訪れる人も多い。この寺が岩窟寺と呼ばれているのも、周りの山に巨岩があることによるものらしい。

 経蔵の脇の斜面にはおびただしいほどの石仏が並べられていた。江戸時代の後期、名僧の誉れ高い豪潮律師(ごうちょうりっし)がこの寺の住職を務めているが、そのときに造られた五百羅漢だそうである。長い風雪に耐え、かなり風化している。

 その前を通り、裏山“大師ケ嶽”へ入った。四国八十八カ所霊場になぞらえて、コース脇には小仏を安置したミニ札所が作られている。やがて上り詰めた山頂には大師37歳時の修行姿を模したという大きな石造が建てられているのだった。

 参拝を終えて再び本堂前に戻ると、夫婦連れと見られるお遍路さんに出会った。篠島を歩いているときにも、何組かにお会いしたものだ。知多路は春風とともにお遍路さんを迎えるシーズンとなり、この寺もそんな善男善女たちでさぞかしにぎわうことだろう。

 

[情報]南知多町役場
470-3321 愛知県知多郡南知多町内海
TEL:0569-62-2218

 

 

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