マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
愛知県甚目寺町 |
特産の小松菜“こまっちゃん”で夢おこし 歴史に彩られた名古屋近郊の町
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町のシンボル、甚目寺観音
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仁王門とその奥にある本堂 |
縁起によると、推古天皇5年(597)、伊勢の住人甚目(はため)龍麿が海中より黄金の観音像を拾い上げ、この地に草堂を営んだのが始まりという。わが国に仏教が伝来してわずか5、60年後のことであり、いかに早い創建だったかが分かる。後に天智天皇の勅願寺となり、天皇が病に倒れられたとき、この寺に祈願して全快された。以来、寺は広く信仰を集めるようになったと言い、鎌倉時代には1山500坊、約3000人の僧がいたというのだから驚く。
参拝をすませた後、振り返って本堂を仰いだ。抜けるような青空を背景に、朱の色がまばゆい。「ちょっと来ないうちに、こんなに立派になっていたのか」と感心させられたものだが、境内の雰囲気は昔そのまま、お年寄りがベンチに腰掛けて世間話に興じていたり、親子連れがハトとたわむれるのどかな光景が見られた。
本堂の左手に忘れられたようにして漆部神社がある。ここは塗り物の神様とされ、そうした業界関係者の信仰を集めている。拝殿の中をのぞき込むと漆器職人などの仕事ぶりを描いた大絵馬なども奉納されていたが、そういえば、塗装に使うハケやブラシはこの町の特産の一つでもあった。
仁王門の両脇にある寺が“塔頭”の大徳院と法花院。門を出るとかつての津島街道をしのばせる「右つしまみち」などと彫られた道標が忘れられたようにあった。そして、そのすぐ南の役場跡には歴史民俗資料館も造られているのだった。
漆部神社が塗り物なら、ここ萱津神社は漬け物の神様。本殿の右手に漬け物を納めた茅ぶきの香物殿と呼ばれる小屋があり、近づくとプーンといい香りが漂ってきた。前には漬け物石が置かれており、これを3度さすると厄除けになるらしい。
はるか昔、里人たちが瓜や野菜、塩などをカメに入れてお供えしておいたところ、偶然にもほどよい塩加減となって漬け物が誕生した。この話は日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝説で一層味付けされてくる。社伝によると武尊は東征の途中この神社に参拝、薮の中にしまわれていた漬け物をふるまわれて「薮に神の物」と大いに喜ばれたそうで、これが縁となって漬け物のことを「香の物」と呼ぶようになった、とある。
普段は参拝客もまれだが、漬け物業者の信仰は厚い。毎年8月には〃香の物祭〃が盛大に行われ、全国から業界関係者が沢山集まってくる。ちなみに、この祭りが8月に行われるのは野菜などの収穫期に当たり、しかも海水の濃度が高くなって塩の生産に適していた故事にもとずく、とか。
神社のもう一つの御利益が他ならぬ縁結び。かつて境内に2本の木が結び付いた〃連理の榊〃と呼ばれる霊木があった。いまではその枯れ木が本堂と香物殿との間に展示されているが、その初代はこれまた日本武尊のお手植えだったと伝えられている。
4月には縁結びの祭り“献榊祭”が行われているそうだ。当日は雌雄の榊1組を飾った神輿が烏帽子姿の人たちに担がれて町内を練り歩く。このとき男性と女性のシンボルを型取った山車なども出るが、こちらの祭りは香の物祭とは逆に、あまり世間に知られていない。
農作業中の人に祭りについて尋ねると笑いながら「山車は風紀上のこともあるでな。あまり宣伝するわけにもいかんよ。まあ、田県神社(小牧市)の豊年祭りみたいなものと想像してもらえばいいかな」と。そんな奇祭とあれば、ぜひ一度見ておかなくては。こちらは豊年祭りのように観光化されておらず、ほのぼのとした素朴でユーモラスなものらしい。
萱津神社から西へ500メートルほど行ったところにポツンと立つ「萱津古戦場跡」の碑。表には「いにしへの萱津ケ原に名をとどむ、もののふどもの夢のまた夢」の歌も刻まれていた。この合戦は織田一族の内部抗争であり、信長が清洲に入城する前哨戦ともなった戦いである。
当時の尾張はまだ混沌としていて、清洲の織田信友(彦五郎)と那古野城の信長が対立していた。松葉城(海部郡大治町)の織田伊賀守と織田右衛門尉は清洲に近いこともあって信友に味方、これに対して信長は叔父に当たる守山城主信光の支援を受けている。一説には伊賀守、右衛門尉の2人はともに信秀の子で、兄弟に当たる信長とは別腹であったとも言われている。
天文21年(1552)信長は庄内川を越えて萱津に進出、松葉の城兵も清洲の応援を受けて迎撃体制にはいった。両者は数時間にわたって激しく火花を散らし合ったが、軍配は勢いに乗る信長軍に上がり、松葉の城は落ちている。碑の前では戦死した将兵たちの霊を慰めようと、いまも地元の人たちによって供養祭が営まれているそうだ。
萱津神社前から堤防道路の西側を並行するように走る細い道路がかつての鎌倉街道。正法寺、妙勝寺、光明寺、実成寺などの古寺があり、道はやがて萱津橋に出る。資料館で尋ねたら「主戦場となった萱津ケ原はどこに当たるか分からない」とのことだったが、おそらくこの萱津橋上流の地ではなかったか。
付近は五条川と庄内川とが寄り添うようにして流れている。鎌倉街道はこのへんで庄内川を船で渡り、現在の名古屋市へと続いていた。対岸は同市の中村区に当たり、そこには宿跡町、東宿町の地名もある。
鎌倉時代から室町時代にかけて、ここ萱津は大きな宿場町だった。そしてまた渡船場としてもにぎわいを見せた。そんな様子の一端は当時の紀行文『東関紀行』の描くところだが、いまとなっては夢想してみるよりその術はなさそうである。
「せっかく来てまっても、いまはなあ……それでもよかったら、まあ、見るだけ見てってちょだい」
知る人ぞ知る、県指定の天然記念物「萱津の大フジ」。萱津橋から少し南へ下った、右岸堤防の川側にある。早速、石田千代子さんに招き入れられ、大きなフジ棚のある庭へ−−。
ここへは花見どきに2、3度立ち寄ったことがある。それにしても大きい。だれもいないところで裸の枝ぶりを眺めていると、その大きさがよけいによく分かる。
フジの樹齢は400年前後と推定され、棚は20メートル四方もあろうか。根周りは4メートルほどと思われ、幹は10数本に分かれて広がっている。棚は堤防に沿うようにして川側に傾斜しており、その先端は水面近くまで延びている。
いまはきれいに剪定されて枝だけが目立つが、やがて新芽が出て葉を茂らせるようになろう。ここのフジの房は1メートル以上もある見事なもので、訪れた人たちの目を存分に楽しませてくれる。見ごろは4月下旬から5月上旬にかけてであり、棚の下は詰めかけた大勢の人で終日ごった返す。
「庄内川の川端にあったのを先祖がここへ移し替えたそうですよ。とにかく古いので専門家に診てもらうなど大変ですわ。枝打ちをしたり土を掘り返したり、大きくきれいな花を咲かせるには結構世話をしてやりませんとね。今度は花の咲いたときに、ぜひ来てちょうだい」
役場でいただいた封筒は全面が藤色で刷られ、甚目寺観音と新たな名物“こまっちゃん”のイラストがあしらわれていた。そして「歴史とみどりの町」のキャッチフレーズ。町では花や緑を大切にしながら、快適な町づくりが進められているようだった。
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