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愛知県弥富町

遠くへ行くばかりが旅ではない 足元の弥富で見つけた小さな旅


まずは資料館でお勉強
いまも語り草、伊勢湾台風

 弥富町は思っていた以上に、南北に細長い町だった。北部を東名阪自動車道と国道1号が、南部を名四国道が、ともに東西に横切っている。役場や人家の多くは町の北側にあり、いわば「北密南疎」の近郊農村である。

 歴史民俗資料館も役場の近くにあった。中へ入ると文鳥と並んでこの町の特産品である金魚の水槽がずらりと並べられていた。お馴染みのワキンやリュウキン、ランチュウをはじめ、海外から持ち込まれてきためずらしい種類のものまで。その一つ一つを眺めていると〃動く宝石〃と呼ばれるのも、あながちオーバーな表現ではないように思われてくる。

 この町は海を埋め立てて南へ南へと延びてきており、そうした干拓の歴史を物語るコーナーも設けられていた。名古屋の熱田と桑名とを結んだ東海道「七里の渡し」の海路も、いまは陸地となって自動車が走り回っている。かつての伊勢湾台風ではここも大きな被害を受けたが、その当時を思い出させる数々の写真も展示されていた。

 2階ではジオラマを使い、町内の地形や交通が紹介されていた。川や海とも関係の深い土地柄だけに、漁具などにも見るべきものが多かった。南部ではまだ近年まで沿岸漁業が盛んに行われており、特に尾張藩主から「蓬莱海苔(ほうらいのり)」の名前を頂戴したという海苔養殖は古くから有名であったらしい。

 目を引きつけたのは吹き抜けに展示されていた前ケ須地区の山車。こちらは桑名に近いこともあって、どの地区の山車も車台に提灯を飾り立てる桑名型の石取車だ。名古屋の山車と比べると小型で見栄えには乏しいが、それだけに祭り当日はカネをガンガン打ち鳴らす威勢のいい演出で魅了してくれるはずだ。

 資料館は国道1号の近くにある。あちこちで金魚池がよくみられるのも、低地である町の特徴をうまく利用したものとも言えよう。スーパーの脇には伊勢湾台風当時の水位を示す標識もあったが、それは自分の背丈をはるかに上回る高さだった。

 

重文指定の服部家住宅
庄屋でも「破格」の家柄

 ルーツは中世の土豪と言われ、江戸時代には大庄屋を務めた服部家。その住宅は東名阪を越えた、町の北はずれにあった。県下屈指の古い民家で国の重文に指定され、尾張藩からは苗字帯刀を許されていたという家柄である。


国の重文に指定されている服部家住宅
国の重文に指定されている服部家住宅
 長屋門をくぐると、正面に茅葺きのどっしりした構えの母屋が見えた。右手には現在のご当主らの住まいがあり、左手の高台には茶室(もとは郷蔵)が造られている。この家は江戸後期に書かれた『尾張名所図会』に「天正年中に建てしままなりとて、今もその古質を存せり」と紹介されているほどのものである(同家に残る古記録から、実際に建てられたのはもう少し時代の下った承応2年[1653]と見られている)。

 その母屋は尺八や琴、あるいは古文書、絵画、さらにはパッチワークなど、町内の人たちを対象にした文化教室として使われることが多いとか。訪れたときはハーブを楽しむご婦人方でにぎわっていた。何を習うにしろ、こんな古風なところで学べるなら、雰囲気としては最高であろう。

 茶室の前庭には「荷之上城跡」の表示があり、この家が城跡の地に建てられていることを教えられた。近くにあった朽ちた木の切り株には「尾張八代藩主宗勝公お手植えの椎(しい)の木」とある。宗勝は10歳になるまでこの家で養育されていたそうで、せっかくの由緒ある木も伊勢湾台風で枯れてしまったとか。

 裏へ回ると離れ座敷や土蔵などがあった。先の『名所図会』は「家系いと憚(はばか)る事多ければ、ここにもらしつ」と書き、多くを語ろうとしない。それだけに門外不出の古文書なども埋もれたままになっており、重文にはこれら史料類も含めて指定されている。

 

知られざる英雄、服部左京進
衆望担って長島一揆を指揮

 「織田家が越前から尾張に入国したのはまだ新しいでしょ。服部家の歴史はそれよりももっと古い、南北朝の前にまでさかのぼることができますよ」

 こう話されたのは同家で古文書の解読に取り組んでいる地元の歴史愛好者の一人。文書のほとんどが手つかずのまま、文庫奥深くに眠っているとか。これらをひも解くことによって同家やこの地域の歴史が明らかになるものと期待されているが、「それには最低でもまだ10年はかかる」と付け加えられるのだった。

 信長の事績を書いたものに『信長公記(しんちょうこうき)』という基本史料がある。その中に「うぐいら」(鯏浦)の服部左京進の名が登場してくるが、一説によると同家は左京進の弟の系統に属するとか。この左京進が信長を逆臣として嫌い、彼の前に大きく立ちはだかることになる。

 永禄3年(1560)5月、桶狭間の合戦が起きた。このとき左京進は今川方に味方、服部党を率いて船で大高城へ駆け付けている。『信長公記』は「武者千艘ばかり、海上は蛛(くも)の子をちらすが如く、大高の下、黒末川口迄乗り入れ」と書くが、すでに義元は討たれてなすすべがなく、「もどりざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下立って町口へ火を懸け」そのうっぷんを晴らしている。

 左京進はまた熱心な一向衆徒でもあり、長島城の城代を務めるほどの人物だった。彼は「百姓ノ持チタル国」のリーダーとして数年に渡り、さんざん信長を苦しめることになる。しかし、最後は皆殺しにされる悲運にあったが、そんな最中、左京進は同志と打ち合わせをするために出掛けた上饗場(三重県・藤原町)で謀略にあい、同地で自刃したと伝えられている。

 服部家から500メートルほど南にある薬師寺境内に「鯏浦城址」と彫られた石碑が建てられていた。この城は服部党に対抗して織田方が築いた城である。『名所図会』が「憚る事多ければ」と書きしぶったのも、これほど織田家に反抗した経緯や、あるいはまた、宗勝を養育したこと、さらには先祖が殿様の娘を娶っていたことなど、時の権力と深くかかわり過ぎてきたことによるのだろうか。そんな事情を知っているのは碑の脇に立つ樹齢600年とも言われる大楠だけなのかもしれない。

 

日本一、白文鳥と金魚
ペットとして根強い人気

 又八新田地区の神社境内に「白文鳥発祥の地」碑があった。文鳥は桜文鳥と白文鳥とに大別されるそうだが、白文鳥は弥富ならではのものだ。碑文にはここに根付いた経過が克明に記されていた。

 それによると、この村に文鳥が持ち込まれたのは元治元年(1864)のこと。尾張藩の武家屋敷に奉公していた八重という女性がこの村へ嫁いできたとき、日ごろかわいがっていた一つがいの桜文鳥を主人から手土産として与えられた。これがきっかけとなって各農家で飼われるようになってゆくが、明治の初め、その中から突然変異で真っ白な文鳥が誕生したという。

 白文鳥は気品にあふれ、さえずりも美しい。特に人になつき、手乗り文鳥として喜ばれた。おかげでこの村は“文鳥村”となり、現在では町内の飼育業者の間で文鳥組合まで結成されて、全国生産の90%を占めるほどになっている。

 もう一つの特産品、金魚はどういう経緯でここに定着したのか。一昨年、秀吉の弟・秀長を調べるために居城のあった大和郡山へ出向いたが、あそこでも町内のあちこちで金魚池をよく見かけたものだ。この両者の関係が最初に訪れた資料館で分かった。

 弥富へ金魚をもたらしたのは、やはり大和郡山の金魚商人たちだった。前ケ須地区は早くから渡船場としてにぎわいを見せていたが、彼らはここで疲れた金魚をしばらくの間、休ませることにしていた。低地で水の便に恵まれていたことはもちろん、特に土壌に色を鮮やかにする鉄分が含まれていたことも幸いしたらしい。

 明治に入ると独自に養殖を手がけるようになってゆく。弥富では特に高級金魚に力を入れており、生産量はすでに本家を追い抜いてしまっているとか。そう言われてみれば、向井さんとスペースシャトルで宇宙旅行をしたのは弥富の金魚であり、また、立田輪中樋門跡に造られた公園の池には毛利さんと旅したものと同じ仲間の錦鯉たちも泳いでいた。

 

 

[情報]弥富町役場
〒498−0017愛知県海部郡弥富町前ケ須新田南本田335
TEL0567−65−1111

 

 

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