マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
静岡県大井川町 |
水と緑に彩られた田園地帯 大井川河口は水鳥たちの楽園
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バードウォッチングの名所
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砂の堤防で閉じられた大井川の河口 |
東名や新幹線から大井川を眺めたとしても、河口を見た人は少ないのではないか。砂浜ならぬ石浜を歩き出したら、何と対岸の吉田町まで行けてしまった。太平洋の荒波はそれだけ激しく、小石はうずたかく打ち上げられて、河口は完全に封じ込められた状態になっていた。
河口一帯はまた工業地帯でもある。大井川港が整備され、物流の一大基地にもなった。港の取り扱う貨物量は“町営の管理港としては”日本一の規模を誇っている。
港の東側には漁港もあった。小さな割にはえらく活気に満ちている。聞けば、いまが桜えび漁のシーズンとかで、漁師さんたちは出漁準備に忙しそうだった。
桜えびは富士川河口部の由比町が有名だが、同じような地形にあるこちらでも捕られていたのか。海が深く湾入した駿河湾ならではの恵みだ。由比を旅したとき「桜えびは特許みたいなもの」と聞かされたが、こちらでも特産品になっているとは思ってもみなかった。
「もう少し時間がたつとぼくたちも由比にまで捕りに行くんだよ。春にはこっちが由比へ行き、秋には逆に由比の人たちがこっちへ来る。おたがい、持ちつ持たれつ、といったところかな」
船から降りてきた若者に尋ねたら、こんな答えが返ってきた。漁は3月から6月と、10月から12月の2シーズン。桜えびは普段は深海に生息しているが、夕方、海面近くに浮上してくるそうで、そこを船びき網で捕らえるのだとか。
明日の朝7時ごろ、この日水揚げされた桜えびのセリが行われる。早朝の散歩には願ってもない見物(みもの)となりそう。なぜかこちらまで気分が高ぶってきて、別れ際に「大漁であることを祈ってますよ」と声をかけていた。
漁港の近くには何軒かの水産物加工場もあった。そのうちの一軒をのぞかせてもらうと、ゆでた桜えびのパック詰めに大忙しの様子。帰りがけに道端で出会ったお年寄りは「不況知らずだよ、専売特許なんだから」と言っていたが、その言葉はくしくも由比で聞いたものと同じであった。
海の幸を前に、夕食をとっていたときのこと。テレビは「山田長政との縁でタイの一行が静岡市を訪問しました」と報じ始めた。ぼくはいささか身びいきから「長政はこちらではなく、尾張の生まれとする説もあるんだよ」と食事中の人に話しかけた。
そこにはたまたま宿のご主人も居合わせていた。「似たような話はこっちにもある。童謡の『月の砂漠』は御宿町(千葉県)の浜辺を歌ったとされとるけど、本当は大井川町の海を見て作ったとこっちでは言われているんですよ」。ええっ、そんなことが?
ご主人の話によると、作者の加藤まさおは隣接する藤枝市の生まれ。が、同市に海はない。大井川河口に広がる砂浜をモチーフとしたと考える方がむしろ妥当ではないかというのだ。
「海辺にワラか何かが二つ並ぶように積まれており、それがラクダのコブに見えたんでしょう。こっちだという人も多いんだが、はっきりした証拠を見つけ出せない。だから県や国もこの話を真剣に取り上げようとしないんですわ」
港へ行く前、海岸を散歩した。そこはテトラポットで埋め尽くされ、砂浜はネコの額ほどでしかなかった。が、かつては大井川の運び出す土砂で美しい砂浜が広がり、「月の砂漠」の生まれるにはぴったりの風情であったらしい。
ご主人の残念そうな気持ちが手に取るように分かった。「本人が何かに書き残しているとか、そうでなくても、ワラを積み上げた風景画などでも出てくるといいんだが」。そして、この後に付け加えられた一言が印象的だった。
「この町の人は絵心のある人が多いから、ひょっとすると……」
確かに絵心はある。それは野鳥園の壁画で実証済みだった。発祥の地として名乗りを上げることができ、いつの日か海辺に砂浜の復活されるのを願うばかりである。
大井川の堤防に立ったとき、背の高い何本もの松の向こうに、お寺の甍(いらか)が見え隠れしていた。どこか由緒ありげだ。その寺は長徳寺と言い、山号を不動山と称していた。
本堂の格天井(ごうてんじょう)にはマス目の一つ一つに美しい花が描かれていた。奥にある本尊は弘法大師作の不動明王で、酉年の大祭の日に公開されるとか。不動明王の多くがそうであるように、こちらも三尊形式をとり、足元に金迦羅(こんがら)童子と制多迦(せいたか)童子を従えているそうだ。
町は河口に位置するだけに、水との闘いの歴史でもあった。弘仁2年(811)長雨が続いて大井川は氾濫、田畑は流失し疫病も蔓延した。弘法大師はたまたまこの地を旅しておられ、村人の救助や施薬などにも活躍されたそうである。
その折、手ずから不動明王を刻み、住民らの平安を祈られた。尊像は小さなお堂に祭られていたが、長徳2年(996)、不動山長徳寺と称するようになった。やはり歴史に彩られた古刹であった。
朝の散歩では港の近くで波余け地蔵にも出会っている。こちらは津波で流されてゆく村人を何人も救助しながら、自らは波にのまれていった旅の坊さんを弔ったものだった。小さな石の地蔵さんはいまも地域の信仰を集めているらしく、周りはきれいに掃除され、真新しい花も供えられていたものだ。
長徳寺に参拝した後、町の北方、東名高速道路に近い上新田地区を訪ねることにした。そこには「舟形屋敷」と呼ばれる独特の民家も見られるそうだ。屋敷は舟の舳先(へさき)のような形に造られ、その周りを土手で囲って浸水を防ぐ工夫が施されていた。
2日間の旅で町内のあちこちを見て回ったが、どうしても見ることのできないものがあった。それは他でもない富士山である。大井川や野鳥園の背後に美しい富士の姿を眺められるものと期待していたが、まずまずの天気に恵まれながらも、ついにその望みは果たせずじまいに終わってしまった。
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