マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
長野県泰阜村 |
ユニーク、村民の育てた学校美術館 伊那山地の南に、清冽な秘境
|
学校を選んだのが密かな誇り
|
万古渓谷のほんの入口 |
ところがまだ歩き出したばかりだというのに、突然、道が消えてしまった。行く手を岩と渓流にはばまれ、これ以上は進もうにも進めない。こうなっては左手の山を登って回り込むより他に方法はなさそうだ。
「なるほど、これは聞きしに優る秘境だよな。自然がそのままにあるとはこういうことだったのか」
笹を握り締め木にしがみつきながら、急斜面を登ることおよそ30分。それにしても、よくもこんな難コースを歩かせるとは。下を見ると渓谷ははるか下を流れ、見上げれば岩山がおおいかぶさってくるようだ。
さすがに進退きわまり、あきらめざるを得なかった。どう見ても登れそうな山ではない。結局、何一つ見ることもなく、おずおずと引き上げたのだった。
帰り道、やっと出会った村人に尋ねてみた。すると「あそこは沢を歩くしかない」と言われ、「そんな格好じゃとても無理」と笑われてしまった。道なき道を岩にしがみつき、鎖をたぐり寄せながら進むコースもあるとか。どうやら万古渓谷は半端な秘境ではなさそうである。
道路端に「ゆべし」の看板を見つけて車をとめた。ゆべしは泰阜村ならではの珍味。ゆずの実に信州みそや米の粉、クルミ、ゴマ、砂糖などを詰め込み、自然乾燥させた“ふるさとの味”である。
その一切れをほおばると、ゆずの香りとほろ苦い味が口いっぱいに広がった。独特の風味に魅せられ、クセになる人も多いとか。お茶やお酒の友として喜ばれ、伊那谷のおみやげとして観光客にも人気がある。
「もともとはこの地方の保存食としてありましたが、昔のものはみその味がもっと強かったですね。ちょっと改良しましたら、思わぬ人気が出ましてね、いくつかの賞までいただきました。酒好きの方にはウイスキーのつまみにいいみたいですね」
こうおっしゃるのは名物の生みの親、松下良子さん。かたわらでご主人の文夫さんが「五百石ゆべし」のいわれについて「この地が天領でちょうど500石でしたからね」と。年貢は「くれ木」(板材)で幕府に納付されており、その完納を祝って行われた五百石祭り(くれ木踊り)もいまに伝えられているそうである。
ゆべしの製造は11月から3月ごろまで。すべてが手作りであり、作るのは年間1万5000個ほど。松下さんの裏庭には大きなゆずの木があり、村ではゆずも特産の一つになっている。
訪れたとき、ご夫妻は「柿巻」を作っておられた。こちらはゆべしを市田柿でくるんだもので、これまた良子さんのアイデア商品だとか。ゆべしに干し柿の甘みが加わり、お茶請けにぴったりの感じだった。
「すみません、いまはこっちにあるんですよ。どうぞ、どうぞ」
村立美術館を訪ねたら、すぐ前の小学校の方へ案内された。その名も学校美術館は〃空き家〃となった北中学校の旧校舎にあった。ついこの前までは小中学校がいっしょだった。
「学校の中に美術館があるのがめずらしいらしく、よくマスコミなどにも取り上げられます。これはここにあります吉川宗一校長が貧しくとも貪しないことを願い、子供たちの情操教育のために発案されたと聞いています。確かスタートは昭和5年のことでした」
解説して下さったのは北小学校教頭の古越豊寿先生。はいったところに提唱者の吉川先生をはじめ、功労者たちの顔写真がも掲げられていた。そうした経緯をお聞きしていると、温泉掘削よりも学校建設を選んだ背景もそんなところにあったのかと思えてくる。
館内には日本画や洋画、彫刻、書などが雑然と並べられていた。PTAが中心となり、あるいは同窓生が資金を出し合いコツコツと集め続けてきたものだ。いまではそうした作品が230点を越し、美術館の名称は決して看板だけのものではなかった。
訪れたとき、ちょうど昼休みだった。館内を撮影していると、元気な子供たちがカメラの前にどっと集まってきた。教頭先生はそんなそんな光景に「都会の子たちとはちょっと違うでしょ」と目を細められるのだった。
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|