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愛知県作手村 |
周りの山々に湿原に、四季のうつろい 作手高原は“愛知の軽井沢”だった
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分水点、こんなところに
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めずらしい標注「分水点」のあるところ |
役場近く、白鳥神社前もそんな広々とした田園風景の中にあった。前方の大きな看板に目がとまり、近付いてみると「豊川矢作川分水点」の文字。その足元には田んぼから流れ落ちる水が左右二つに分かれて流れていた。
この小さな川を「巴川」と言い、かつては「乱橋」という橋が架かっていたそうだ。流れの定まらぬこの地は有名だったらしく、『徒然草』の作者・鴨長明は「花すすきおほのの原のみだれ橋 秋のこころにたとへてぞ行く」と歌を詠んでいるとか。かたわらにはそんないわれを書いた案内板と、橋をあしらった小公園も作られていた。
「分水嶺」はよく耳にするが、平地で分かれる「分水点」はめずらしい。その水源を求めて、背後にある巴山へ車を走らせた。山は額田町との境界に位置し、山頂には白髭神社が祭られていた。
小さな社殿の脇に、三角柱の形をした石碑があった。それぞれの面に「豊川」「矢作川」「男川」と刻まれ、案内板には三つの川にちなんだ古歌も記されていた。男川とは乙川とも書かれ、岡崎市内で矢作川に合流する川である。
「三河」の国名はこの三本の川から生まれたと言われている。山そのものは標高719メートルと低く、道路脇に車を停めて10分も歩けば頂上だった。この何でもないような山が三河地名発祥の山であったとは--。
「この木はまたいい格好をしてるよ」 「何だかでっかい盆栽でも見ているよう」
甘泉寺の開山堂前に、悠然とそびえる高野槙。太い幹は途中から二つに分かれ、その枝ぶりも見事なものだ。目にしたとたん、「でっかい盆栽」を連想してしまった。
木は国の天然記念物に指定されている。高さ27メートル、幹の周り6.3メートル、推定樹齢600年以上。全国名木100選の一つに数えられているそうで、確かに見応えは十分である。
こんな静かな山里の寺にも、中年夫婦がやってきた。「あった、あった」「これだ、これだ」。息を切らせて来た2人のお目当ても、やっぱりこの高野槙だった。
根元近くに長篠合戦を勝利に導いた鳥居強右衛門の墓があった。城を抜け出して家康に援軍を依頼、その帰り、武田軍に捕らえられてハリツケにされた人物。この地に葬られたのは、家康を助けて設楽ケ原で武田軍を破った信長の命によるものだそうである。
甘泉寺も歴史に彩られた寺だったが、後に訪れることになった善福寺も、古色蒼然としたいい寺だった。山門をくぐると杉木立に囲まれた参道があり、その向こうには本堂が垣間見られた。石段の脇にあるこけむした石仏も印象的だった。
寺はどうやら無住のようだが、弘法大師によって創建されたとか。村名「作手」はここの本尊十一面観音の手を補修したことから名付けられた、とある。何気なく通り過ぎた山門ではあったが、その仁王様が運慶作と知らされて、改めて見つめ直してみるのだった。
乱国もいまはのどか 戦国武将、ここからはばたく
「らんごくなとこだけど、さあ、こっちへあがってくりょう」
旅の楽しみの一つは、その土地で交わされる言葉である。「乱雑にしていること」「散らかしていること」をこちらでは「らんごく」と言うそうだ。武田や今川、さらには織田からも狙われた、いかにも三河ならではの言葉ではないか。
ここも「乱国」の地らしく、村内には城跡が多い。手元にある『愛知の城』(山田柾之著)を見ると、この村だけで30もの城が紹介されている。分水点に近い白鳥神社後ろの山も古宮城という城跡で、その城は武田氏によって築かれたものだった。
作手村から奥平、菅沼の武将が出ている。しかし、ここは徳川、武田の争地でもあり、生き延びるのは容易なことではなかった。あるときは父子が二つに分かれて戦い、またあるときは非情にも寝返らざるを得なかった。
いまいるここは奥平氏ゆかりの亀山城の跡。本丸のあった丘陵上からは、村がよく見下ろせた。奥平氏は初め、2キロほど北に川尻城を築いたが、後にこの地へ移ってきている。
奥平氏も苦難の歴史が続いた。6代目信昌は家康側に属し、長篠城を預かっていた。長篠合戦後、信昌は家康の長女「亀姫」を妻とし、新城城(新城市)を築いてようやく出世街道の入口に立ったのである。
村の北端には菅沼集落があった。いまはのどかな山里だったが、ここが菅沼氏発祥の地である。『愛知の城』によると菅沼城、菅沼古城があったとのことだが、今回、城跡を探索するまでの時間がなかった。
菅沼氏はここを振り出しに、やがて田峯城(設楽町)、長篠城へ進出する。友人に菅沼姓の人がいるが「うちのルーツは作手村。先祖も苦労しとるわ」と言って笑っていたのを思い出した。先の作手奥平氏と田峯菅沼氏、長篠菅沼氏は後に“山家三方衆”と言われることになるが、そうした戦国武将のふるさとがここ作手村であった。
作手村のレジャースポットが30ヘクタールにも及ぶ「鬼久保ふれあい広場」。ここには体育館やプール、テニスコートなどの各種スポーツ施設をはじめ、木工教室の開かれる「木工館・遊木」、ホールなどを備えた「リフレッシュセンター」もあった。もちろん、この地での宿泊も可能で、しゃれたペンションや英国調のカントリーハウスもある。
村はこれまでに10数億円を投じ、官民一体となって開発に取り組んできた。近年、ここを舞台に大きなイベントも開かれ、都会の人たちとの交流も進んでいるらしい。訪れたとき、広いグランドではソフトボールの対抗試合が行われていた。
シカ牧場のそばに「湿原の森」があった。村内には東海地方最大と言われる長ノ山湿原があったが、ここでも植物や昆虫の観察ができるようになっている。折しもその小さな池の周りでは、村の花でもあるサギソウが可憐な花を咲かせていた。
この広場の脇から出るスカイラインを通って本宮山の山頂へ。山は作手村、一宮町、新城市、額田町の境界にあり、標高789メートルとこのあたりでは一番高い。山頂はテレビや無線などのアンテナが林立する“電波銀座”だった。
言うまでもなく、三河の一ノ宮が一宮町にある砥鹿(とが)神社だ。その奥宮が山頂付近にあり、鬱蒼とした原生林に包まれて神々しく見えた。一宮町側から何人かのハイカーが汗をふきふき登ってきていたが、こんなところまで車で来てしまえる便利さもまた捨てたものではない。
帰りに役場と隣り合わせた歴史民俗資料館をのぞいてみた。ガイドブックにも載っていないようなこの村にも、見どころはいっぱいあった。居合わせた職員の一人は「近々2、3億円をかけ、村内の歴史の道と創造の森を整備する方針」と語り、村おこしにも並々ならぬ意欲が感じられた。
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