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愛知県田原町 |
渥美半島の“力こぶ”田原町 崋山の里にも新しいレジャースポットが
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崋山でもつ田原の観光 |
博物館入口にある渡辺崋山「立志の像」 |
崋山は寛政5年(1793)江戸麹町の田原藩上屋敷で生まれている。幼いころから苦労を重ね、40歳のときに江戸家老になった。天保の飢饉に際しては領民救済に備えた穀倉に助けられて1人の餓死者も出さず、幕府から全国でただ一つ田原藩が表彰されたそうで、「報民倉」と書かれた倉庫の額も展示されていた。
「あら、まあ。こんなものまで書いているの。さすがだわね、デッサン力も」
崋山やその師、門弟らの絵を見てきた2人連れの若い女性も、牢屋の状況や取り調べの様子をスケッチした絵の前で驚いたような声を上げていた。天保10年(1839)蘭学を志した崋山は高野長英らとともに捕らえられるが、恩師らの嘆願によって国元での蟄居謹慎を命じられた。いわゆる「蛮社の獄」と言われる事件がそれである。
田原に来た崋山は城の近くで幽囚の日々を送ることとなった。門弟らがその生活を助けようと崋山の絵を売ろうと企てたが、これが後に問題となり、藩主に災いの及ぶことを恐れて自刃して果てた。ときに崋山、49歳。後ほど訪ねた幽居跡は「池ノ原公園」と名付けられ、その一角には復元された質素な家と崋山の銅像、墓標変わりに大書したという「不忠不孝」の石碑などがあった。
また、城跡には博物館と並ぶようにして崋山神社と崋山会館もある。三河田原駅に近い城宝寺にはその墓もあった。田原は1万2000石の小藩ながら、崋山の残した足跡は大きかった。
崋山神社に参拝したあと、田原城を見て回った。博物館のあるところがかつての二之丸に当たり、本丸跡には三宅氏の祖先を祭る巴江神社が、三之丸跡には護国神社が建てられている。そして、県道を隔てた北側が“出曲輪”藤田丸のあった地だ。
ところどころに石垣や堀、土塁なども残るが、城郭そのものとしてはあまり見るべきものはない。田原藩は諸藩に先立って版籍を奉還し、天守(二之丸櫓)をはじめ一切の建物を取り壊してしまっている。城は別名「巴江城」とも言われていたが、それは堀が巴のような形に造られていたことによるとか。
先ほど訪れた博物館には田原城の絵図や領内図、歴代城主表など関連資料も展示されていた。城は文明12年(1480)、戸田宗光によって築かれ、戸田氏はここを居城に渥美半島を統一している。その後、朝比奈、本田、伊木氏が在城したが、慶長6年(1601)戸田氏が返り咲いて3代続き、九州の天草に転封してからは挙母(豊田市)の三宅氏が入城して、12代約200年続いて明治を迎えている。
いまだ幼い竹千代こと家康を急襲したのは、前期戸田氏5代尭光(たかみつ)のとき。今川義元のもとへ送るため船で田原に送られてきたところを強奪、将来性ありとみた尾張の織田氏に差し出してしまう。これがもとで今川氏に攻められて滅亡するが、尭光(たかみつ)の叔父に当たる光忠は逃れて後に家康に仕え、関ヶ原の合戦後、再び田原に返り咲くことになる。
大手門に当たる桜門を出て、かつての城下町だったあたりを散策した。城外に設けられた惣門跡付近が今川軍との間で激戦を繰り広げた地だとか。中小路を抜けたところには崩れかけた旧武家屋敷の土塀も残っていた。道は細く曲がりくねり、ところどころには古めかしい人家も見られる。
挙母から入った三宅氏の菩提寺が梅坪山霊願寺である。本堂の脇に歴代城主や奥方の墓石が並んでいた。境内に足を踏み入れたとき、意外にこぢんまりとした寺との印象を持ったが、聞けば明治の初めに火災にあい堂宇をことごとく焼失してしまったそうである。
田原町は渥美半島のほぼ中央に位置している。町内には思っていたよりも平坦な地形が広がっていた。そんな中で三河湾側にある標高250メートル前後の蔵王山や衣笠山が実際よりもかなり高く見えてくる。
蔵王山の山頂へは車で上ることができた。鉄筋4階建ての立派な展望台があり、中には売店や軽食、喫茶室などもあった。崋山神社に参拝したとき、社殿の背後の山の頂上に見えたのがこの建物だった。
エレベーターで4階に上ると、ぐるっと360度を見渡せる。あいにくの曇り空で遠望はできなかったものの、それでもこの町の様子が手にとるように眺められた。北は波静かな三河湾、南は緑の大地の向こうに太平洋が広がっている。
その三河湾は大きく埋め立てられ、いまや有数の臨海工業地帯。田原藩当時、馬の放牧場にされたという姫島が青い海にポツンと浮かんでいる。三河湾の海沿いには海浜公園や海水浴場、キャンプ場などもあるそうで、いまごろはさぞかし若い人や家族連れでにぎわっているにちがいない。
そんな行楽客にとっても、この展望台は無視できない観光のポイント。行きや帰りなどに立ち寄る人も多いらしい。夜はライトアップされて町の人にも親しまれ、展望台から見る夜景もまた格別だとか。
はるか南に見えた太平洋へ足を延ばしてみることにした。断崖を下り切ると美しい砂浜が広がっており、さわやかな海の香りを満喫することができた。その波打ち際では磯釣りを楽しむ人たちの姿もちらほら見受けられた。
国道259号バイパスにある「道の駅・めっくんはうす」。特産のメロンやスイカが所狭しと並べられていた。聞き慣れない「めっくん」について尋ねたら、「野菜の芽や花の芽などの愛称で、それに町おこしの芽、産業の芽、文化の芽などもかけている」とのこと。なるほど、聞いてみないと分からない。
南の渥美町に近いところにあったのが農業公園「サンテパルク」。農業や環境をテーマに造られた広大な施設で、実習スペースと体験工房「サラダ館」をはじめ、ミニアスレチック、バーベキューレストラン、野菜の遊園地、サイクリングコースなど、沢山の娯楽施設があった。訪れたときは平日で人影もまばらだったが、日曜日などともなれば家族連れでさぞかしにぎわうことだろう。
思っていた以上によかったのが、町中にあった「田原まつり会館」だった。1階の展示室にはきれいに飾り付けられた2両の山車が置かれ、いきなり祭りの最前列に陣取ってしまったような迫力だった。普段なら山車蔵に入れられて宝の持ち腐れとなるはずだが、観光で来た者にとってこうして常設展示されているのはうれしい。
よく見ると山車は2層から成っており、われわれにはおなじみの名古屋型だ。名古屋の誇る山車文化がこんな離れたところで花開いていたとは。その造りやからくり人形などにみとれていると、係の人が説明に来て下さった。
展示されているのは2両だが、聞けばこの町にはもう1両あるそうだ。祭りのルーツは熊野神社の祭礼として始まり、宝暦3年(1753)からこれに神明社と八幡社が加わって「三社祭」となった。名古屋型の山車が登場して現在の姿になったのは明治以降のことだそうである。
バックに流れている祭り囃子が耳に心地よい。その祭りは毎年9月14日から16日の3日間、にぎやかに繰り広げられるそうだ。2階にはその日の様子を語りかけてくるかのように、からくり人形や提灯、ハッピ、あるいは三河ならではの打ち上げ花火や手筒花火などが展示され、見ているだけで心まで浮き立ってくるようだった。
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