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三重県伊賀町

わが町こそ、芭蕉のふるさと 3人の偉人、いまも人々の心に

芭蕉はここで生まれた
「さん」付けで呼ぶ町の人

 松尾芭蕉はてっきり上野市で生まれたものと思っていた。同市にある芭蕉記念館や俳聖殿は観光名所となっているし、近くの生家を訪ねたこともある。ところが、その芭蕉は隣接する伊賀町の柘植(つげ)で生まれていたというのだ。

 さっそく芭蕉公園を訪ねてみることにした。手前にあった萬寿寺が松尾家の菩提寺だそうで、裏手には小さな芭蕉の墓も建てられていた。公園に歩を進めると、「芭蕉さんと村童(そんどう)のいふ刈田道(かりたみち)」の句碑に歓迎された。


芭蕉公園とされた福地城跡
芭蕉公園とされた福地城跡
 公園は福地城の跡地に造られていた。城跡には石垣や堀、井戸なども残り、中世城郭を代表するものとして、県の史跡に指定されている。その本丸跡と思われるところが庭園風の公園となり、「芭蕉翁生誕之地」と彫られた記念碑や「古さとや臍(ほぞ)の緒(お)に泣くとしの暮」などの句碑も建てられていた。

 この公園は翁の200年忌を記念して明治26年に造られている。芭蕉の先祖はここで威を張った福地氏の一族だったそうだ。これが開園したときは法要や除幕式、句会、花火大会など、村を挙げて祝い合ったということだが、その背後には上野市にお株を奪われてきた思いもあったのだろうか。

 近くの拝野(はいの)集落には「芭蕉翁誕生宅阯」碑があった。ネコの額ほどのスペースではあるが、碑の周りの木々はきれいに手入れされ、町の花でもあるツツジがいまを盛りと咲き誇っていた。通りがかったおばあさんに声を掛けると「詳しいことは分からんで、役場にでも聞いてみてや」と言いながら「芭蕉さんはここで生まれやあたと聞いとる。碑はこの家の裏庭にあったんや」と教えて下さった。

 芭蕉は寛永21年(1644)、松尾儀左衛門の二男としてこの地で生まれた。同家の先祖は伊賀の国主だった平宗清(むねきよ)にまでさかのぼる家柄だったと言い、彼が19歳のとき、上野の藤堂藩に仕えることになったという。平宗清は初めて耳にする人物だったが、旅の終わりにまた出会うことになろうとは--。

 

小ぢんまり、民俗資料室
「伊賀はわが故郷」と横光利一

 次に伊賀町の民俗資料室を訪ねた。公民館などとの併設で専従者はなく、役場の職員がカギを持って駆け付けてくれる。しばらくの間、辺りを散策することにした。

 高台にあるここからはこの町の象徴でもある霊山が目の前に見える。建物の脇には『旅愁』などの名作を残した横光利一の文学碑もあった。利一は子供のころ、母の実家がこの町にあった関係で4年間を過ごしているそうだ。

 わざわざ駆け付けて下さったのは教育委員会の世古晃義さん。「小さなものであまり訪れる人もいなくって……」と遠慮がちだが、たとえ小さくともこうした施設があるのはいいことだ。受け皿さえ作っておけば、ゆかりの品々は自然と集まってくる。

 資料室では芭蕉、利一と並んでもう一人、橋本策(はかる)というこの町の生んだ偉人を教えられた。霊山を見下ろした航空写真と、その山頂で発掘された遺跡の出土品なども並べられていた。生活の臭いのしみ込んだ民具もかなりある。

 世古さんの話によると、芭蕉は上野まで来ながら「ここへは一度も足を運んでいない」とか。これにはいかにも残念そうだが、ここを故郷と思っていた利一は「芭蕉が帰られないことはよくうなづける。好きなればこそ帰れないという苦しさは文人でないと分からない」旨の手紙を書き残しているそうである。

 伊賀町を旅していると、この町で生まれたと思いたくなってくる。上野市は仕官して青年期を過ごしたところ、と言うべきか。一般の人にはその誕生地がどちらであってもいいようなことかもしれないが、地元の人たちにとってはそれこそがまさに問題なのだろう。

 

橋本博士、病名に名を残す
いまも語り草、庶民派の名医

 病名に日本人の名前が付いているのは三つしかないそうだ。川崎病、高安病、それに橋本病。中でも外国で一番通用しているのが橋本病だとか。

 病気は頚部にできる慢性の甲状腺疾患だが、これに取り組んでいた橋本策は大正2年(1913)、研究成果をドイツの医学雑誌に発表した。当初はあまり注目されなかったものの、1930年代に入って広く認められるようになり「ハシモト病」と命名された。日本で有名になるのは戦後のことで、海外から逆輸入される形となった。

 この橋本博士の生まれたのが伊賀町の御代(みだい)地区で、家は4代も続く医者の家系だった。博士は論文発表後、ドイツなどに留学、帰国後は開業医として家を継いだ。名医としての評判は高く、患者は滋賀や京都、奈良からも集まったと言い、JR「新堂」駅から御代に向かう約1、2キロの田舎道はみな橋本病院へ通う人ばかりだったそうである。

 博士は昭和9年に52歳の若さで亡くなった。その直前、村人たちは地元の神社にお百度を踏んだり、病院の前には連日お祈りをする人の列ができたとか。博士の弟が命乞いで名高い滋賀県の多賀大社へ祈祷を受けに行ったところ、何と神主から「伊賀に偉い先生がいるので、そちらで診てもらいなさい」は言われてしまったというエピソードまである。

 病院の跡地にはそんなゆかりからか、「偕楽荘」という養護老人ホームができていた。前庭の片隅に「生誕の地」碑もある。しかし、橋本病院当時を物語るものとしては裏手に建つ古びた土蔵が1棟あるだけだった。

 山手の愛田地区には町の自慢でもある保健センターやスポーツセンターなどの立派な施設ができていた。その一つ、健康ふれあいセンターの横に、町民たちを見つめるかのように、博士の胸像が置かれていた。博士の患者に接する態度や人柄は語り草となっており、いまも地元の人々の胸にしっかりと生き続けているようだった。

 

霊気漂う?霊山の山頂
平宗清、源頼朝を助ける

 世古さんから「山頂まで車で行ける」と教えられて霊山に登ることにした。標高766メートルとあったが、急坂を登るにつれてガスが立ち込めてくる。杉林はいつしか樹齢200年ほどのアセビやイヌツゲの茂る原生林に変わっていた。

 山頂には嵯峨天皇の勅願を受け、伝教大師(最澄)によって大寺院が建てられていたという。それを物語るかのように古びた五輪塔や宝篋印塔があり、薄暗い石室の中には観音像も祭られていた。ここではお経を埋めた経塚も見つかっており、それにちなんでタイムカプセルも設置されていた。

 山頂からは伊勢湾や琵琶湖、生駒山なども遠望できるとのことだった。しかし、いまはガスにさえぎられて視界がきかない。石室内に備え付けられていたノートには「死ぬつもりで来たが、もう一度がんばってみます」との走り書きもあった。ガスに包まれた信仰の山には一層の霊気が漂っているようにも感じられてくる。

 ふもと近くには江戸初期に再興された霊山寺があった。このとき寺は天台宗から黄檗宗に変わったそうだが、参道などに並ぶこけむした石仏が歴史をしのばせてくれる。そして、ここへ来て意外なことを教えられた。

 平治の乱で源氏は壊滅的な打撃を受け、源頼朝も危うく命を奪われるところだった。そこを「いまだ幼いから」と平清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)に救われる話はよく知られているが、その頼朝を一時預かることになったのが芭蕉の祖先に当たる平宗清だったとか。伊豆に流される直前、宗清はこの頼朝を伴って伊勢神宮に参拝することを思い立った。

 霊山の近くまで来たとき、その山頂から不思議にもご来迎が見られた。宗清らは大神宮のご来臨とあがめ、ここから京都へ引き返すことにしたそうだが、一行の「拝した野」が芭蕉の誕生地でもあった拝野であるとか。後に鎌倉幕府を開く頼朝は宗清だけには柘植の地を与えて保護したばかりか、彼が助命を祈願した寺と知って霊山寺に伽藍や大鐘を寄進したそうである。

 旅は知られざる歴史との出会いでもある。最後に訪れた霊山寺で面白いみやげ話ができた。伊賀町はなかなか興味深い町だった。

 

[情報]伊賀町役場
〒519-1412 三重県阿山郡伊賀町大字下柘植728
TEL:0595-45-9116

 

 

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