マイタウン(MyTown)| 一人出版社&ネット古書店 |
愛知県美浜町 |
若者は海辺で恋を語り合い 年配者は仏と出会うお遍路の旅に
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乙女心、せつなく愛らしく |
人気の出だした恋の水神社 |
ここへ来る前、恋の水神社にも立ち寄った。テレビに取り上げられて若者の間ですっかり有名になったが、最近では観光バスまで停まることもあるらしい。神前には泉の水を入れた湯飲み茶碗がぎっしりと並び、その一つ一つにも様々な願いごとが書き込まれていた。
ここにはまた、おじいちゃんやおばあちゃんのデートスポットもいっぱいある。知多新四国八十八カ所巡りがそれだ。春の訪れとともににぎわいをみせ始め、どの寺でも白装束姿のお遍路さんをよく見かけた。
大御堂寺、通称“野間大坊”は50番、51番目の1山2札所。源頼朝の父、義朝は平治の乱に敗れて家臣の長田親子を頼って落ち延びてくるが、平家の恩賞に目のくらんだ親子に入浴中を襲われて絶命した。境内にある墓の前で手を合わせていると「せめて木太刀の1本なりとも……」と悔やんだ、義朝の悲痛な声が聞こえてくるようでもあった。
その脇には織田信孝の墓もあった。彼は信長の三男で本能寺の変後、秀吉に追放されてすぐ側の安養院で自害させられている。「昔より主を討つ身(内海)の野間なれば むくいをまてや羽柴筑前」。53番札所でもある同院にはこの辞世とともに、無念のあまりハラワタを床の間に投げつけたという、血痕の付いた掛け軸まで残されていた。
お遍路さんを乗せたタクシーやバスがひっきりなしにやってくる。参拝し簡単なお経をあげたかと思うと、もう次の札所めざして慌ただしく去って行く。2日か3日で回るとなると、のんびり構えてもいられないらしい。
48番札所、良参寺は野間から少し南へ下った小野浦にあった。ここへもそうしたお遍路さんたちが入れ替わり立ち替わりやってくる。こちらのもっぱらの関心は嵐で遭難した船員たちの墓にあった。本堂の裏側に墓地があり、その奥の方に肩を寄せ合うようにしていくつも並んでいた。
天保3年(1832)10月、回船問屋の“千石船”宝順丸は大坂から江戸へ向かう途中に難破、何カ月も漂流したすえカナダに流れ着いた。乗組員14人のうち、奇跡的に助かったのは音吉、久吉、岩吉の3人だけ。彼らは異境を放浪中にマカオでドイツ人宣教師と出会い、天保8年にはシンガポールで聖書を日本語に訳して出版している。寺から少し離れた海辺寄りの地には〃3吉〃の偉業を讃えた「和訳聖書発祥の碑」も建てられているのだった。
美浜町は見どころが多い。南知多ビーチランドはパスして杉本美術館へ。工場見学もできるえび「せんべいの里」もなかなかの人気だった。
このあたりまで来ると、空を低く飛ぶ鵜によく出会う。近くの鵜の池には展望台があり、水面ではカモたちが羽根を休めていた。野間から歩いてきたというジーンズ姿の中年夫妻は歴史あり、自然ありのハイキングコースに「いいわ、いいとこだわ」を盛んに連発しているのだった。
池の奥へ回ると鵜の繁殖地、鵜の山が作られていた。いるいる、さすがは日本一! 多いときには何と1万羽を越えるとか。松林はフンで真っ白に変色しており、立ち枯れした木々が異様な光景を描き出している。
よく見れば、それらの木々には巣が作られていた。3月から4月にかけてが繁殖期だそうで、訪れたいまがちょうど子育ての真っ最中か。そんな目で見ていると、遅ればせながら小枝を運んでくる鳥もいる。
ここの鵜は海鵜と思っていたが、すべてが川鵜だそうな。すでに天保年間(1830−1844)に住み着いていたという記録もあり、昭和9年には国の天然記念物に指定されている。昔はこのフンが良質な肥料としてもてはやされたとのことだが、化学肥料全盛の昨今では、鵜たちもいささか肩身が狭いのかもしれない。
鵜の飛び交う光景を眺めながら、しばらくあたりを散策することにした。すぐ近くを通る南知多有料道路は鵜の山を真っ二つに割った感じだが、遮光トンネルの設置で光害対策も講じられているようだ。のどかな山里を愛知用水がとうとうと流れ、そのかたわらでは草木が生気をみなぎらせていた。
美浜町は昭和30年に野間町と河和町が合併してできた町だ。観光面では伊勢湾側に人気が集まっているが、反対の三河湾側はどうなのか。帰りがけに河和にも足を延ばしてみた。
ここの港は日間賀島や篠島、伊良湖岬への、観光船の発着場にもなっている。スマートな高速船が停泊していたが、あたりに人気(ひとけ)はない。一休みするために入った食堂にも、客は一人もいなかった。
「昔は一面の砂浜で、いまごろはすごい人出だったですよ。30年前に嫁いできたとき、あまりの忙しさに『こりゃ、えらいとこへ来てまったわ』と思ったもんです。それが見てちょーだい。いまは暇で暇で、まったくどもならんですよ」
こう言っておかみさんは明るく笑った。小学生のころ、春の遠足と言えば、ここへ来ることも多かった。少し上手のわずかばかりに残された浜辺では潮干狩りも始まり、けし粒のような人影がぱらぱらと見えた。
「こっちなら、ただだわ。それにこっちの方がうまいんや。ほら、見てみい、結構あるだろ。あっはっは」
港の堤防下にできたネコの額ほどの干上がった海で、おばさんたちがしきりに泥を掘り起こしていた。どうやら地元の人たちらしく、貝を取りながらも世間話に話がはずんでいる。「ただ」ばかりか「うまい」の表現に、こちらも思わず笑ってしまった。
知らぬ間に風もやんでいた。堤防の上からのんびり釣り糸を垂らす人もいる。のどかな春の海にも、いつしか夕闇が迫りつつあった。
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