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三重県二見町

最も朝日を美しく拝める町 神話はいまも人々の心に

日の出の名所、夫婦岩
旅館街に往時の面影

 あまりにも有名な二見浦の夫婦岩。これは沖合660メートルの海中に鎮まる霊石「興玉(おきたま)神石」の鳥居と見なされ、男岩(おいわ、高さ9メートル)と女岩(めいわ、同4メートル)は大注連縄で結ばれている。神代の昔、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)の神霊を携え、猿田彦命(さるたひこのみこと)出現の地であるここ二見浦に船を泊められたとされる聖地だ。

 岸辺に建つ二見興玉神社は霊石の遥拝所として設けられたのがそもそもの始まり。大注連縄は5、9、12月の年3回、ここの神官の指図によって地元青年らの手によって張り替えられる。その長さは男岩に16メートル、女岩に10メートル巻かれ、全長は35メートルにも達するとか。

 子供のころ来たこともないのに、岩の間に朝日の昇る絵をよく書いたものだ。小学校の修学旅行も、伊勢とここ二見だった。いまはあちこちに観光地ができて様変わりしたが、二見浦は日本人に古くから親しまれてきた名所の一つだった。

 夫婦岩ばかりがイメージとして残り、その周りに3つも岩があるとは思ってもいなかった。それぞれに烏帽子岩、屏風岩、獅子岩の名が付けられている。烏帽子岩は蛙のようにも見え、蛙岩の別名もあるそうだ。


あまりにも有名な二見浦の夫婦岩
あまりにも有名な二見浦の夫婦岩
 夫婦岩の間から朝日が昇るのは5月から7月ごろにかけて。夏至のころにはちょうど真ん中から昇り、古くからその日の指標とされてきた。訪れた12月は最も離れたときだったが、カメラマンの相棒は先ほどから「どこかいい場所を見つけ出し、荘厳な日の出を何とかうまく納めてやる」とすっかりやる気になっている。

 近くの食堂で伊勢うどんをほうばった。太い麺に少なめの黒いつゆ、それに薬味のネギがあるだけ。シンプルなうどんのこの味がまた何とも言えない。

 海辺に沿うようにして木造の旅館が建ち並んでいる。その多くは明治から大正期にかけて創業されたものだそうで、中には3階建ての風格あふれる建物も目につく。先ほど寄った食堂の店員は「昔と違っていまはねえ」と悲観的だったが、こうして歩いているとお伊勢参りでにぎわった往時の面影があちこちからしのばれてきた。

 

行基創建の名刹・太江寺
ネコが墓守?“ペット寺”

 二見興玉神社の背後にある小高い山が音無山(標高119、8メートル)だ。自然林の中に遊歩道が設けられ、「音無山園地」と名付けられていた。展望台からは二見の海岸や町並み、遠くは知多半島、渥美半島なども眺められた。

 いったん山を下り、反対側に回った。その裾野には太江寺(たいこうじ)という真言宗の古刹がある。年代を経てきたと思われる朱塗りの山門は傷みが激しく、屋根にはビニールシートがかぶせられていた。

 この寺は伊勢三十三カ所霊場の一番札所に当たる。二見は猿田彦大神降臨の霊地とされ、あるいは天照大神船寄りの聖跡ともされた。そうした縁で奈良時代の聖武天皇の御代、僧行基が伊勢神宮に参拝、大神のお告げでここに一宇を建てたのに始まる。

 参道の石段を上っていると、黒猫の歓迎を受けた。初めは足元にまとわりつき、やがて案内をするように先に立って歩き出した。弘法大師が高野山に入られたとき犬に先導された故事を思い出したが、その弘法大師もここへ足を運んで諸堂を建立されているそうだ。

 本尊は猿田彦の本地仏とされる千手観音。行基の作と伝えられてきたが、その作風から鎌倉期のものらしい。高さ1、7メートルの座像で、国の重要文化財に指定されている。

 参拝を終え、境内を散策した。その一角に卒塔婆(そとば)がぎっしり並んでいる。近付いてのぞき込むと、何とそれは犬や猫を弔うものだった。

 「メリーちゃん、やすらかに」
 「ぽち、私たちは君を忘れない」

 静まり返った古刹はペット安眠の地でもあった。人の気配を感じたのか、どこからともなく何匹もの猫が出てきた。寺は5月にフジ、6月にアジサイの咲き乱れる「花の寺」として親しまれているそうだが、ペットとの結び付きはちょっと意外なようにも思えてきた。

 

蘇民神話発祥の地、松下社
奇岩「潜島」見物に冷や汗

 この町の家々には玄関に「蘇民将来子孫家門」と書かれた注連縄が掛けられている。中には縮まって「将門」、さらには縁起をかついで「笑門」とあるものも。これは素戔嗚尊(すさのおのみこと)が二見を訪れて一夜の宿を求められた折、貧しかった蘇民将来が温かくもてなしてくれたのに感謝、お礼に子孫は悪病などからまぬがれると約束されたことによる。

 蘇民の住んでいたとされるところが、太江寺から少し東へ行った「蘇民の森」だった。そこには平安中期の陰陽師・阿倍清明(あべのせいめい)によって建てられた松下社という神社があった。ここで授けられる蘇民ゆかりのお札やお守りは病魔よけ、厄よけなどに人気があり、そのご利益は絶大だとか。

 神社の脇には地元の人たちが造った「民話の駅・蘇民」という、農産物や海産物などを扱う直売所があった。丸々と太った伊勢大根は7、80センチもあり、それでいて売価はたったの100円という安さ。以前、伊勢を訪ねたとき、とろろ芋のような味のするでっかい伊勢芋に感動したものだが、伊勢には伊勢えびや伊勢うどん以外にも、とんでもない名物が隠されているようだ。

 展望台から見えた神前(こうざき)灯台はここからもう少し先の海側になる。あちこち探し回ったが、灯台へ通じる道はないようだ。断崖となって海に落ちるその下に、潜島(くぐりじま)と名付けられた奇岩があるとか。

 砂浜はやがて岩場に変わった。ところによっては波が岩を洗い、引くのを待って急いで渡らなければならないほど。これでは親でも子を、子も親を気にしておれない、二見の親不知子不知ではないか。

 磯伝いに難所を進むこと数十メートル、目の前に巨大な岩の洞門が現れた。トンネル状にできた洞穴の前には注連縄が張られていたはずだが、いまは朽ち落ちてその一部は岩場に打ち上げられている。それにしてもひどい道を来てしまったものだ。洞門の上の岩山ではウの群れがあざ笑うかのように、のんびりと羽根を広げてわれわれを見下ろしていた。

 

いまに続く古代の塩作り
その名も御塩殿神社

 倭姫命が天照大神の神霊を大和から伊勢へ移す途中でのこと。上陸されたこの地のあまりの美しさに、二度振り返って見られたことから二見の名は生まれたとか。そして、倭姫命は神前にお供えする塩を、ここの浜辺で作るように命じられたそうだ。

 二見浦海水浴場の西端にある御塩殿(みしおでん)神社がその塩を作るところ。神域はうっそうとした木々でおおわれ、まるで野鳥の楽園のようでもある。にぎやかなさえずりを耳にしながら進むと、その奥に清楚な神明造りの社殿が鎮座していた。

 神宮に納められる塩はどこで作られるのか。参拝後、社殿の後ろの方に回ってみると、そこには茅葺きの屋根を地表まで葺き下ろした天地根元造りの御塩焼所があった。それはあたかも縄文時代の竪穴住居を思わせるような素朴な造りだった。

 海水はここから1キロほど西、五十鈴川河口付近の御塩浜で採られる。海水を砂地に何度も何度もまき、濃い塩水を作ってゆく古くから伝わる製法。そして、濃縮された塩水はここで煮詰められ、さらに焼き固められて天然の塩となる。

 毎年10月5日にはこの神社で塩を焼き固める御塩殿祭(みしおでんさい)なる神事が古式ゆかしく行われるそうだ。この日は塩の神様として塩業の繁栄も祈られ、全国から業界関係者らも多く集まってくるとか。塩と言えば科学的に作られたものがもっぱらだが、ここで精製される塩は神聖で最もぜいたくなものと言えよう。

 古代から営々と続けられてきた塩作り。そして、いまに語り継がれる倭姫命や素戔嗚尊の話。二見の町には神話が息づき、注連縄がよく似合っていた。

 蛇足ながら後日談を一つ。夢はあまり見ない質(たち)だが、帰ってから海でおぼれる悪夢に二度もうなされた。筆者は情けないことにカナヅチなのだ。そこへ行ったことのある人の話によると、潜島は大潮のときに洞門内を歩いてくぐれるそうだが、あの時間帯に行ってはいけなかったのだ。危ない、危ない。

 

[情報]二見町役場
〒519-0602 三重県度会郡二見町大字江420-1
TEL:0596-42-1111

 

 

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