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長野県木祖村 |
木祖村は木曽川源流の里 木曽11宿の一つ、薮原のいま
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木曽路の難所、鳥居峠
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鳥居峠へ向かう山道 |
15、6年前、真夜中に車で旧国道(19号)を通ったことがある。その旧道はいまも未舗装のまま重なるように走り、あのときの心細さを思い起こさせてくれた。しかし、この日は白昼とあって、難所であったはずの街道も、格好のハイキングコースである。
奈良井宿から歩いてきた親子連れと出会った。それぞれが手にクリやトチの実の入った小袋を下げている。静かな森の中を歩いていると、突然落ちてくるクリの実に驚かされることもしばしばで、道には拾い切れないほど転がっていた。
やがて丸山公園に出た。いま来た薮原の町並みが街道に沿って延び、糸のように細い木曽川が銀色に光って見える。かたわらに建つ古びた碑をのぞき込んだら、芭蕉の句「木曽の栃うき世の人の土産かな」が刻まれていた。
すぐ近くにある航艪ヘ御嶽講の御嶽遥拝所。社殿の脇からは雄大な御岳山(標高3067メートル)が望めた。しかし、展望は期待していたよりも悪く、分水嶺とか難所とかといった実感はない。
「そこまで行きながら残念だなあ。峠はもっと上なんだよ」
後日、街道散歩を趣味とする友人から、こう言って嘆かれてしまった。遥拝所から下り坂になっていたので、てっきり鳥居峠と思い込んでしまったのだ。「そこからがいいんだよ。それじゃあ、何のために行ったのか」。ああ、彼の言葉が原稿を書いているいまも耳に響いてくる。
木曽川の上流部は味噌川と呼ばれ、西側から流れ出た笹川と合流して薮原の町へ下る。前者は味噌川ダムでよく知られた川。この村へ入ると、奥の方にロックフィルダムが見え隠れしてくる。
ダムは平成8年に完成、多目的ダムとしては日本一甲「ところにある。堰堤の長さ140メートル、最上部の標高1130メートル。総貯水量は6100万立方メートルで、ほぼ諏訪湖の水量に匹敵するとか。
堰堤に立つと木曽の山々が迫り、「奥木曽湖」と呼ばれるダム湖には満々と水がたたえられていた。振り返った下流側には薮原の町並みが見下ろせ、その背後に木曽駒ヶ岳がどっしりと腰をすえている。ここからの眺めはなかなか雄大である。
ダムのたもと、左岸側に「木曽川源流ふれあい館」があった。「水の回廊」と呼ばれる“水中”トンネルをくぐると、源流の森を再現したジオラマ、木祖村の暮らしや文化、味噌川ダムの構造や役割などが紹介されていた。このダムは昭和46年に調査を始め、完成までに約25年の歳月をかけているそうである。
右岸側の柳沢尾根公園と呼ばれ、格好のビューポイントになっていた。ダムや奥木曽湖が手に取るように眺められる。取水塔があり、発電所があり、管理棟があり……先ほど見てきた模型を現実の中で確認するような感じだ。
堰堤とその周辺にはこうした見晴らし台やしゃれたモニュメントなども配されていた。大自然の中にできた遊歩道に沿って、辺りを散策してみるのも楽しみの一つ。ダムは木祖村の新しい観光名所となりつつあるようだ。
さらに上流へ車を走らせてみることにした。最奥に架かる橋はその名も「奥木曽大橋」。赤いアーチ型の橋が緑の山々に美しく映え、周回する湖畔の道路は快適なドライブコースでもあった。
薮原宿は木曽11宿の中で最もにぎわった宿場だったとか。鳥居峠を超す人はその前に鋭気を養い、超えてきた人は疲れをいやした。ここはまた野麦峠を経て飛騨へ抜ける追分でもあった。
しかし、宿場としての町並みは望むべくもなかった。わずかにお六櫛の問屋や杉玉をつるした造り酒屋、そして、今晩泊まることになっていた旅館くらいか。これまでに何度も火災に遭っており、それを物語るかのように、防火壁として造られた講サの一部も残されていた。
この宿場の名物は言うまでもなくお六櫛。街道から少し離れた大きなみやげ物店ではその実演もされていた。まったくの目分量で細かい櫛の歯を、一本一本挽(ひ)いていく技は見事なもの。近くの郷土館にはそうした仕事場も再現され、道具類や製造工程の解説から各種史料に至るまで、なかなか充実したコーナーとなっていた。
お六櫛の生産は江戸後期から活発になるが、その由来については諸説があるそうだ。ここで語られてきたのは、頭痛に悩む近在のお六さんが御嶽神社に願掛けしたところ、夢枕に大権現が立ち、「ミネバリの木で挽いた櫛で髪をすけば治る」とお告げがあったことからとか。いまもあちこちに「お六櫛」の看板を掲げた店があった。
この木祖村はユニークな「日曜画家の村」を宣言している。お六櫛の技術は下駄や民芸品、とりわけ額縁など画材関係にも生かされ、木曽谷随一の木工集落となっている。スケッチにここを訪れるアマチュア画家も多く、宿場内にはそうした作品を飾る屋外ギャラリーも設けられていた。
JR中央本線をはさんだ反対側に、立派な社殿の薮原神社(古くは熊野神社)があった。郷土館に展示されていた薮原祭りの絵図「岨俗一隅(そぞくいちぐう)」(天保12年・1841)には目を見張ったものだが、その祭りはいまも毎年7月の8、9両日に行われているそうだ。町の中にはその豪華な屋台を納める屋台蔵も見かけられた。
この日泊まったのは「こめや」という旅館。ここはめずらしく昔そのままの造りで、看板に「旅篭中仙道やぶ原こめや」「米屋與左衛門」とある。江戸時代の旅人になった気分で、ワラジならぬスニーカーを脱ぐのだった。
木曽と言えばヒノキに代表される木曽五木のふるさと。笹川の上流、やぶはら考エの奥に水木沢がある。その周囲82ヘタールはほとんど斧も入らぬ天然林になっているそうだ。
森の入口に案内所を兼ねた無人の管理棟が建てられていた。脇には村長おすすめの湧水があり、まずは乾いたのどを潤す。持っていた空のペットポトルが思わぬところで役に立つことになった。
コースは「原始の森」と「太古の森」の二つ。前者は約1キロ、後者は約1、2キロ。せせらぎが誘うかのように、早くも目と耳を楽しませてくれている。
森の中には樹齢200年を超す古木が林立していた。ヒノキ、サワラ、ミズナラ、ブナ。そんな巨樹に出会うたびに、思わず「おお、おお」「これは大きい」「すごいなあ」などと感嘆の声を発していた。
逆光で透かして見える、木の葉の緑が鮮やかだ。朽ちた巨木や根株はこけむし、はるかな時の流れを感じさせてくれる。心の中までが洗われたように、すがすがしい気分になってきた。
とてつもない巨木が目に飛び込んできた。推定樹齢550年、直径2、5メートル、巨大なサワラの木。このコースを選んだのも、これに魅せられたわけだが、天を突くかのように伸びた堂々たる姿に、しばし立ちつくすのだった。
額に汗をにじませながら、心地よい森林浴を楽しんだ。この間、何度大きく深呼吸したことか。1時間ほどの散策で、すっかり森のとりことなっていた。
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