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長野県日義村

悲運の武将・木曽義仲のふるさと その足跡を日義村に訪ねる

まずは義仲館でお勉強
旅人を招く、ゆかりの徳音寺

 日義村は“朝日将軍”木曽義仲のふるさと。義仲橋を渡ると右手に資料館「義仲館」があった。木曽川もここまで来ると、一本の狭い川でしかない。

 その館の前には甲冑姿の義仲が床几に腰を下ろし、かたわらにはナギナタを手にした、これまた勇ましい姿の巴御前(ともえごぜん)が立っていた。この銅像は近年になって造られたそうだが、訪れた人の目を見張らせるには十分なスケールだった。

 義仲は武蔵の国に生まれたが、2歳のときに父を亡くしている。乳母の夫である中原兼遠を頼り、この村へ落ち延びてきた。巴は兼遠の娘で、嫁してからは武将として行動を共にした女丈夫だ。

 館内には絵画や等身大の人形などを使い、31年の生涯が再現されていた。かしこまって平家追討の令旨(りょうじ)を受ける場面、牛の角に松明を結び付けて平家の大軍を打ち破った倶利伽羅峠の戦い、京に上り征夷大将軍に任じられるシーン、そして近江の粟津で迎えるあえない最期など。それらはまるで朝日の昇るように輝かしく、そして夕日の落ちるようにはかない。


義仲の菩提寺でもあった徳音寺
義仲の菩提寺でもあった徳音寺
 館の隣にある古刹が義仲の菩提寺でもある日照山徳音寺。もとは母の小枝御前を弔うために義仲が建てたものだが、その死後、軍師だった覚明(西仏上人)が母の墓のそばに墓碑を建て、現在の山寺号に改めている。1キロほど北の地からここへ移転してきたのは、江戸時代に入った慶安3年(1650)のこと。

 鐘楼を兼ねた立派な山門は犬山城主成瀬家の寄進とあり、山あいに響く晩鐘は木曽八景の一つに数えられていたとか。境内には義仲を祭る御霊屋(おたまや)やゆかりの品々を集めた郷土館もあった。そして御霊屋脇に設けられた墓所では義仲や巴御前、小枝御前らが寄り添うようにして静かに眠っているのだった。

 

畑の中にぽつんと旗挙八幡
暗闇に火文字と松明の列

 幼い義仲は兼遠の屋敷で育てられた。元服後、それまでの駒王丸を義仲と改め、現在の旗挙八幡宮のあたりに居を構えた。同宮は兼遠に連れられて京都に上った折、石清水八幡の分霊を勧請して創建されたものだ。

 来てみると意外と思えるほどこぢんまりとした神社だった。それだけに社殿の脇にあるケヤキの大木がよけいに目立ったが、この木が「義仲元服の大ケヤキ」と呼ばれているものだそうな。治承4年(1180)、義仲は後白河天皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)の令旨を受けて挙兵するが、いまいるこの地はそれに呼応して集まった将兵たちの歓声で満ちあふれたにちがいない。このとき義仲27歳。

 「毎年お盆の14日の夜、らっぽしょと呼ばれる松明祭りが行われるんだ。向こうの山を山吹山と言うんだけんども、山の頂上に『木』と書かれた跡が見えるだろ。あれは篝火(かがりび)をたいた跡でな、それに火を点けてからみんなが手に手に松明を持って山を駆け下りるんだ。平家を破った倶利伽羅峠の再現だよ」

 近くで畑仕事をしていたおじいさんは見知らぬ旅人にもやさしかった。祭り当日は神社の前で花火が打ち上げられ、町では義仲や巴御前、四天王などに扮した武者行列も繰り広げられるそうだ。「らっぽしょ」は「乱舞しよう」のなまったものとも言われ、この一語にも奇策で大勝利を得たときの喜びが伝わってくるようでもある。

 八幡宮の近く、山吹山の下で木曽川はS字状に大きく蛇行している。そこにできた深淵は「巴ケ淵」と呼ばれ、いつしか巴御前はこの淵に棲む龍神の生まれ変わりだったとする伝説も生まれた。山の名前は義仲の愛妾山吹姫にちなむもので、かたわらに「山吹も巴もいでて田植かな」の句碑も建てられていた。

 この山は紅葉の名所としても有名だそうな。山頂にのろし台の跡もあると聞いて登り始めたが、実際に歩いてみるとかなり時間もかかりそうで、途中であきらめてしまった。しかし、中腹からは木曽川に沿って延びる町の様子が手に取るように眺められ、ところどころで焚かれる野焼きの煙があたりにたなびいてなかなかの風情だった。

 

西に御岳、東に駒ヶ岳
春を待つ木曽駒高原

 きりりと身の引き締まる、底冷えのする朝だった。ここは標高にして1000メートルほどの木曽駒高原。西に木曽の御岳がそびえ、東に駒ヶ岳がそそり立っている。周りにはシラカバやカラマツ、ブナ、ナラなどの林が広がり、それらの間には別荘やペンションなども点在していた。

 観光の中心、木曽駒森林公園はそんな雄大な大自然の中にあった。整備されたオートキャンプ場にはテニスコートやマレットゴルフ場、ジャンボ滑り台のほか、各種レジャー施設も造られていた。しかし、いまはシーズンオフで、訪れる人とていない。

 園内には縄文時代の竪穴住居も復元され、そのそばには炭焼き小屋もあった。この家の主である縄文人は、いまみなが憧れているアウトドアライフの達人といったところか。たまたま炭焼きの様子を見に来ていた係の人は「春まで冬眠だよ」と言って笑い、「ここで焼いた炭はバーベキュー用にも使ってもらえるんだ」と教えてくれた。

 近くには木曽文化公園もあり、豪華な造りの建物が目を引いた。訪ねてみると宿泊施設も兼ねた文化ホールで、木曽11町村で造られた共同施設だとか。樹齢数百年の巨木を並べた「ヒノキテラス」はそのシンボルにふさわしい。

 森林公園に隣接してゴルフ場が広がり、もっと奥へ入れば駒ヶ岳のふもとにスキー場もある。これから主役を務めるのがそのスキー場だ。背後にそびえる駒ヶ岳の頂はすでに真っ白に雪化粧しており、シーズン到来の近いことを予告していた。

 あたりを散歩していると「巴の松」と記された松の木に出会った。義仲の時代、この広い高原は格好の演習場でもあったにちがいない。2人は木曽馬にまたがって汗を流し、そしてまた、恋を語り合うこともあったのだろうか。

 

村は中山道東西中間の地
新しい標札に昔の屋号

 日義村で忘れてならないのが中山道だ。それもここからは江戸へ下るにしても京都へ上るにしても67里28丁だそうで、その道端には「中山道東西中間之地」と書かれた大きな標注も立てられていた。宿場・宮の越はいまも村の中心で、先に訪れた旗挙八幡や義仲館、徳音寺などもすぐそばだ。

 車を捨てて歩いてみることにした。道は曲がったり上下したり、街道の雰囲気をよく残している。が、さすがに町並みとなると昔の面影はごくわずかで、本陣跡も立て札からかろうじて当時の様子をしのべる程度だった。

 一軒一軒の標札をのぞき込むと「川上屋」とか「若松屋」「えびや」などの屋号が掲げられていた。通りかかった人に尋ねてみると、せめて屋号だけでも復活しようと、最近になって始められたものらしい。道理で真新しい標札が目についたわけである。

 隣の原野集落は宮の越よりひなびた感じで、建ち並ぶ家々にもかつての風情がしのばれてくる。近くの林昌寺には義仲の養父である中原兼遠の墓もあった。中山道に沿うようにしてJRの中央線が通っているが、村には原野駅と先の宮の越駅の二つの駅があることになる。

 京都方面へさらに歩を進めると、木曽川の支流・正沢川に架かる七笑橋に出た。木曽の名酒「七笑」は知っていたが、ここが名前の出どころだったとは。そして、川を越えた木曽福島側には兼遠の屋敷跡や義仲ゆかりの手習天神などもあるのだった。

 現代の街道、国道19号は木曽川や中山道などと並行するようにして、その東側を走っている。七笑橋から村へ戻って間もないところに「道の駅」があった。「駅」としては小規模のものだったが、特産品売場にはとれ立ての野菜や果物、山の幸などが所狭しと並べられていた。

 

[情報]日義村役場
〒399-6101 長野県木曽郡日義村1602
TEL:0264-26-2301

 

 

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