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■尾張名陽図会

大判で見やすく、鮮明に高力猿猴庵の
『尾張名陽図会』を100部復刻

◎原本以上にきれいな本に

 高力猿猴庵の『尾張名陽図会』出来上がってきた。同書は名古屋市鶴舞中央図書館に所蔵され、昭和18年に名古屋温故会によって復刻されている。同50年にはこれをもとにして愛知県郷土資料刊行会からも出版されているが、おしむらくは2書ともにきれいな印刷物とは言い難い。

 この『尾張名陽図会』は昭和59年、角川書店の出した『日本名所風俗図会』シリーズのNo.6にも収録され、初めて活字によってたやすく読めるようになった。これは非常な労作ではあるが、文章を主体に構成されているため図版は小さく、細い線などは飛んでしまっている。この点、絵に関心のある人にはいささか物足りなくもあった。

復刻に使われた『尾張名陽図会』(名古屋市鶴舞中央図書館蔵)
 いまでは前にあげた本はいずれも古書店で入手不可能に近く、温故会のものに至っては絶望的とも言える。角川書店刊のシリーズも、すでに絶版になって久しい。古書店で見かけることもなくなり、たまにあったとしても高価なものとなっている。

 当店にもこれらの本に対する問い合わせがしばしば寄せられた。しかし、それに応えられないのが実状だったが、先ごろ、同図書館のご厚意により復刻させてもらった。制作に当たってはこれまでのものとの違いをより鮮明にするため、何よりもきれいな仕上がりに心がけた。加えて110%に拡大しており、原本以上に見やすく読みやすいものとなる。

 前置きはさて置き、高力猿猴庵の代表作となった『尾張名陽図会』について記そう。題名にある「名陽」とは名古屋のことを言う。「陽」は「太陽」や光の当たる「南」側を表す美称で、尾張は「尾陽」、金華山のある岐阜は「華陽」などと呼ばれることもあった。

 『尾張名陽図会』は尾張にある名古屋の城下を対象とし、そこで見られる寺社をはじめとする様々な名所旧跡などを紹介している。これが全7巻に収められ、合わせると600頁近くにも及ぶ。その内容は後に出る『尾張名所図会』の城下部分を圧倒的に上回る多さである。

 当の猿猴庵はこれを出版することまでは考えていなかったようだ。それが証拠に絵を説明する部分などに、まだ空白にしたままのところがあったりする。序文や跋文、あるいは奥付として必要な年号の記載などもない。

 しかし、ここに描かれているのは彼の生きた文化・文政とその前後であることは間違いない。当時、各地で「名所図会」が刊行されており、絵心のある彼は大きな刺激を受けたことだろう。少し長くなるが「凡例」の最初に書かれている一文を紹介しておこう。

 「此一扁は名陽なる神社・仏閣・或は古伝有る地を図画に著し、諸州の名勝図会に類せしものなり。其絵ぐみハ都図会に真似(まね)び、文談は江戸砂子のふりに誌し、難波の詠(ながめ)のごとく古物・霊木・奇岩の類ひ、或は世に珍らしき器物などハ大絵にあらはし、亦(また)は興(おもしろ)多きむかし咄(ばなし)に言ふらせる故事をも風流に画(えがき)て、児女の観(みもの)ながらにして、いにしへを知らしむる便(たより)とてなせるものなり」

 ちなみに「名所図会」の始まりは安永9年(1780)に出版された秋里籬島編・春朝斎画の『都名所図会』とされる。当初は出版をしぶっていた版元であったが、これが出来上がると大人気となった。おかげで籬島は版元の全面的な支援により、『東海道名所図会』や『木曽路名所図会』などを次々と著すことになる。

 このヒットで同様のものが各地でも出されるようになった。それらを聞いたり目にしたりした猿猴庵がわれこそはと思ったのも、もっともではなかろうか。先ほど紹介した角川書店刊の『日本風俗名所図会』(全18巻・別巻2)はそれらを活字化して集大成したものだった。

 

◎高力猿猴庵という人物

 猿猴庵は宝暦6年(1756)に生まれ、天保2年(1831)に亡くなっている。享年76。名は種信、通称を新蔵(新三)と言い、猿猴庵はその号である。

 彼は300石取りのれっきとした尾張藩士だったが、その名を高めたのは得意としていた文筆である。文章を書く一方、絵にも秀で、多くの作品を残した。しかし、それらは生前に出版されることはなかったし、自身もそれほど意識してはいなかったようだ。

 猿猴庵は紙と矢立をいつも懐中にしのばせ、見聞きしたものはその場で書き留めた。そして、1町先(約109メートル)の高札の文字まで読めるほどの眼力も備えていた。どこかでお祭りやご開帳などがあると聞けば、行かずにはおれない性格でもあった。

 その彼は城下の南に広がる武家屋敷に住んでいた。慶応4年(1868、明治元年)当時を描いた『名古屋城下図』を見ると、御園町の南、現在ある御園座の裏の道(御園通)の少し南、西側あたりに「高力善三郎」とあるのがそれだ。彼が天保2年に亡くなっているところからすると、善三郎はその後継者ということになる。

 ここは大須や広小路にも近い。幼いころから親に連れられ、芝居や縁日などに通っていたものと思われる。そうした環境が好奇心旺盛な人間に育てていったのかもしれない。

 「名古屋なんでか情報」の連載「名古屋東別院物語」でしばしば使わせてもらった『絵本富加美草』や『東御坊繁昌図会』も彼の手になる作品である。もし、これがなかったら、別院再建の様子はあそこまで詳しくは分からなかった。彼には30年間にわたって書き続けた日記『金明録』もあるが、これも当時の様子を知るうえで貴重な史料となっている

 「名古屋別院物語」の中でも書いたが、猿猴庵の絵は土産物ともなった。地鎮祭や棟上げ式など節目節目の儀式には多くの参拝者で埋まり、再建の様子を描いた彼の絵はそうした人たちの人気を集めた。まさに「芸は身を助く」である。

 そんな彼のもとには後に『尾張名所図会』などで名を成す小田切春江や大和絵で知られる森高雅(玉僊)なども通っていた。彼らは長じて同書の挿絵に携わることになるが、猿猴庵からいかに多くのことを学び取ってだかがしのばれる。同図会は岡田啓・野口道直の編纂で推進されたのに対し、猿猴庵は一人で文章と絵をこなしてしまっていた。

 この点もなかなか見上げたものである。多くの「名所図会」は分業で作られており、また、文章と絵とはそれぞれ独立した頁構成になっている。ところが猿猴庵は絵を描き、その隙間に文字を埋め、あるいはまたその逆の手法もとって、独特の雰囲気を醸し出してしている。

 そしてその絵もどこかたどたどしく、春江のように洗練されてはいない。これがまた妙に人間くさく、親しみを感じさせてくれる。当節、ウマヘタ絵が好まれているが、猿猴庵のそれも“ヘタだけどウマイ”それに似ていなくなもない。

 ウマヘタ絵は単にヘタだけでは描けない。その背後にはしっかりとしたデッサン力が求められてくる。それは多くの円空仏を造った円空にも似ており、彼もまたひとかどの仏師だったからこそ生み出せた独特の作風であった。

 そうしたユニークの手法で名古屋城下の様子を巧みに描き出している。これがなかったら『尾張名所図会』もいまあるものとは違ったものになっていたかもしれない。“記録魔”猿猴庵の果たした役割、そして、後世への影響力はまことに大きなものがあった。

 

◎高力猿猴庵と朝日文左衛門

 こうした“記録魔”ぶりで思い当たるのは御畳奉行の朝日文左衛門重章(しげあき)ではなかろうか。この人の名は多くの作品を残した猿猴庵以上に有名になっている。その日記『鸚鵡篭中記(おうむろうちゅうき)』は翻刻本や解説本などが出され、彼の生き様はテレビドラマになるなどもした。

 しかし、最近は文左衛門ほどではないが、猿猴庵の名を知る人も多くなってきている。以前には名古屋市博物館で「高力猿猴庵とその時代」と題された展覧会も開かれた。二人は江戸時代を代表する名古屋の“記録魔”とも言える。

 この二人によって当時の名古屋の様子、とりわけ庶民の暮らしぶりを知ることができる。彼らは格式ばりがちな上級武士ではなく、自由気ままに日常生活を楽しんでいた。それでは両者にどんな違いがあったのだろうか。

 文左衛門の作品らしい作品は『鸚鵡篭中記』一点のみである。しかし、これを30年以上も延々と書き続け、しかも世間を騒がす浮気や殺人などのスキャンダルに強い関心を持った。これが活字化されて以来、注目を集めるようになったのも当然である。

 ところが、その日記に接した江戸時代の人々の中には眉をひそめる人も少なくなかったらしい。興味本位に走り、過激でもあったからだ。藩主や側室らの悪態なども、お構いなく書いている。

 確か奥村得義(のりよし)もそうだったと思うが、ごく一部の人に限られたものの、これを読む機会に恵まれている。彼は著書の『金城温古録』の中で「とんでもないことを書いている」との感想を述べていたはずだ。その個所をいま同書で探しているが、確認できないのが残念である。

 四代藩主吉通(よしみち)などは『鸚鵡篭中記』の中で悪し様に書かれ、いまでは暗君と見られがちである。しかし、彼もなかなかの人物であったはずだ。だからこそ六代将軍家宣が次期将軍職か摂政役にと考えたのでもあろう。

 いってみれば『鸚鵡篭中記』はいまの週刊誌やテレビのワイドショーのようなものだ。その点、猿猴庵の作品群はまともすぎると言えなくもない。面白さということでは文左衛門にかなわないのも当然である。

 しかし、おたがいに見る目は違っていたとしても、当時の状況を克明に記録したという功績は大きい。おかげで当時の名古屋の様子――とりわけ庶民の暮らしぶりを詳しく知ることができる。ネームバリューでは文左右衛門に軍配があがったとしても、絵と文の両道で多作した猿猴庵にはさすがの彼もかなわない。

 文左衛門は延宝2年(1674)の生まれで、享保3年(1718)に死んでいる。猿猴庵は宝暦6年(1756)の生まれであり、二人がいっしょに空気を吸ったことはない。このブランクに宗春が藩主となり、そして失脚している。

 その時代に二人のような“記録魔”がいたら面白かろうと思うのだが、残念ながら彼らに相当するような人物は見当たらない。強いて探せば俳人として有名な横井也有あたりだが、彼はあまりにも真面目人間でありすぎた。加えて、宗春とはウマが合わず、その在任中は一定の距離を置いてしまっている。

 もう一人に宗春の小姓で蟄居後も行動をともにした河村秀根がいた。しかし、彼は『日本書紀』の研究に打ち込み、俗世間の動きなどは書き残していない。せっかくの「面白き世」が両“記録魔”の谷間となってしまった格好である。

 秀根と言えば「将軍毒殺」に関係したとされる一人でもあった。猿猴庵はこの事件に驚きながらも、その日記で城下の大捕物や土器野(かわらけの、現清須市)で行われた犯人の一人、蘇森子桂のさらし首のことなどを書き残している。この人が無関心でいられるわけがなかった。

 東別院も元禄期と文化・文政期に再建されており、二人の生きた時代とちょうど重なっていた。ともによく足を運んではいるが、それを見る目もやはり違っていた。文左右衛門は参拝する群集を「蝋のごとく」とか「蛆(うじ)のごとく」などと形容し、さめた目で眺めたりしている。夢中になって『東御坊繁昌図会』などを描いた猿猴庵とは大違いである。

 名古屋城下の様子を記した『尾張名陽図会』は猿猴庵の残した多くの作品の中の一つであり、そして、大作にして傑作である。本書の復刻によって、それがより身近なものとなった。ぜひご注目下さい。

 

 


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