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岡田啓、『名所図会』でも苦悩
不屈の精神『小治田之真清水』に挑む


 小社主宰の「尾張名所図会を原文で読む会」では栗花光弥先生のご指導のもと、約6年をかけてその全文を読み終えた。この間、先生は病気で倒れられたが、「全部読み切るまでは」との強い意志で、見事にこれを成し遂げられた。お亡くなりになったのはその2年後のことである。

 勉強会で配られる手書きの読み下し文と解説はそのまま『のーと尾張名所図会』として形にできた。特に病気後は不自由な手で書き進められたが、その筆跡は前と遜色のないほど確かなものだった。先生のご指導とご努力に感謝し、改めてご冥福をお祈りしたい。

 『尾張名所図会』の付録とも拾遺版とも言われる『小治田之真清水(おわりだのましみず)』も、いずれは読みたいと思っていた。こちらはまだ活字化されておらず、これこそ挑戦に値する史料とも言える。しかし、それも先生の死でかなわぬ夢となってしまった。

 ところが、このたび「古文書に親しむ会」でご指導いただいている鬼頭勝之先生にお願いして、これを実現できる運びとなった。『尾張名所図会』に比べると、こちらの中味はあまり知られていない。小社では前回と同様に「小治田之真清水を原文で読む会」と称し、これを活字化する意気込みで取り組んでゆくことにした。

 それでは『小治田之真清水』を著した岡田啓とは一体、どのような人物であったのか。そして、これを書くことになった背景には何か秘められていたのか。

 名前の「啓」は「けい」と読まれるケースも多いが、正しくは「ひらく」と読むらしい。漢和辞典で「啓」を引いても「ひらく」の読みはある。身分は低かったが、博覧強記の人として知られていた。

 彼については市橋鐸氏の一文「文園岡田啓が事」に詳しい(『東海郷土文化史考』に収録)。以下、これを参考にしながら、他の資料をも交え、その人となりなどを見てみたい。

 啓は天明元年(1781)に愛知郡中野新田の人、金右衛門の二男として生まれた。初め金蔵、後に六兵衛を称し、文園とも号した。長じて尾張藩に仕えたが、下級の恵まれない身分だった。

 仕官してから六石二人扶持の御厩御用番組頭兼目付役を仰せつかり、後には尾張藩の藩校「明倫堂」の謁者(かっしゃ)となって一石を加増された。謁者とは来客の取り次ぎなどをする仕事だが、これとても大した役ではなく、数ある“足軽”の中の一人にすぎなかった。しかし、学問好きの彼がそうした環境に身を置けたのは幸せであったにちがいない。

 同じ“足軽”でも家禄をもらって代々採用されれば、微禄ではあっても尾張藩の家臣と言える。ひょっとすると身分は本人だけの“一代禄”だった可能性もないではなない。子がなかったとみえて兄の孫(三男)を迎えているが、この人については名前も不明である。

 彼の勉強ぶりは仲間内では早くから知られていたが、それというのも奇人や変人を見るような類(たぐい)のものだった。1万巻にも及ぶ書物に埋もれて暮らし、その多くは自らの手で書き写したもの。中でもお気に入りの『一葉抄』から、蔵書を「一葉文庫」と名付けていた。

 本に対するこだわりは半端なものではなかったらしい。散逸しないことを願って文庫前に碑を建て、「一葉文庫」の文字を彫り付けていたほど。その住処は名古屋城のお堀の北、現在の西区城西5丁目の地に当たる。

 このような異才も低い身分では注目されることもなく、いたずらに年を重ねてゆくばかりだった。そうしたジレンマから来たのだろうか、かなりの屈折した性格の持ち主でもあったようだ。やや後の話になるが、次のような記録も残されている。

 弘化2年(1845)6月25日、『諸家雑談』を書き残すことになる細野要斎は初めて彼の家を訪問している。このとき啓はすでに60を越え、彼とは30歳の開きがあった。啓の不満は初対面の彼にも遠慮なくぶつけられたが、要斎にはこれがかえって面白くも感じられたようだ。

 「一見識を主張するといふに非ず。諸家の非をあげて、其弁舌滔々たり。古今の諸家を称するに頗る不遜なり。『何といふやつ』『何め』などといふ。其詞(ことば)不思議なれども、意気悪しからず、一笑を発すべきの狂態なり」(『諸家雑談』)

 そのような学問一筋の人生に転機を与えてくれたのは天保4年(1833)、尾張藩が以前に編纂した『張州府志』(30巻)の補訂に乗り出したことだった。後にそれは『尾張志』(60巻)と名付けられることになるのだが、このとき啓は中尾義稲(よしね)とともに編者に抜擢されたのである。上役にはその名を知られた総裁の深田正韻(まさつぐ、香実)、校訂の植松茂岳(しげおか)がいる。

 啓はこのときすでに50を過ぎていた。しかし、これまでの知識を存分に生かせる仕事であり、また、上役らにも無視できない存在となっていたのだろう。実際に編纂上では共著となった中尾以上の働きをしたものと思われる。

 しかし、そんな啓にも大きな不満があった。先に挙げた上役のほか、編纂に携わる御用人たちもみな偉い人たちばかりである。抜擢されたとはいっても、単なる下働きに過ぎない。

 「尾張志の編集、深田・植松二氏の質正にて、下書きは中尾と予(啓)となり。文体、事実等は其人々、各意ありて一様になりがたし。恐くは後世、君子に恥を遺さんのみ」

 こうしたいらだち、焦りが“お役所仕事”とは違った分野で活路を見いだそうとしたのだろうか。『尾張志』の仕事とは別に野口道直(梅居)との共同で『尾張名所図会』の制作に取り組み始めている。道直は枇杷島にあった青物問屋の主人で、風流の道に生きる人でもあった。

 その『尾張名所図会』前編7巻は『尾張志』よりも先に完成している。すなわち天保12年(1841)の冬に脱稿し、同15年には菱屋久兵衛と菱屋久八郎との合板で出版された。しかし、彼はここでも思いのままには作れなかったとの不満を残している。

 まずは書名の「名所」が気に入らなかった。元来「名所」とは歌に詠まれる優れたところであって、単なる景勝の地を指すのではない。彼に言わせれば、収録する歌も100年も前に名人たちが詠んだものに限るべきであって、評価の定まらない近年のものの採用には反対であった。その他ささいなことに至っては『吾妻鏡』を『東鑑』と書くなど、意に添わないことがいっぱいである。

 しかし、スポンサーでもある道直には遠慮せざるを得ない。事実、資金集めであちこちの有力者に協力を求め、道直自身もこれがために家業を傾かせるほどの状況だった。『尾張志』での不満のはけ口を見つけ出そうとしたものの、こちらでもまた不満を募らせることになってしまっていた。

 この間にも『尾張志』の編纂は続けられている。これが完成するのは天保14年(1843)のことである。少し長くも感じられないでもないが、補訂の域をはるかに越える内容のものとなっていた。

 それから4年後の弘化4年(1847)、『尾張志』編纂の御用人の一人だった滝川忠貫宅で祝宴が開かれている。このころに本として形になったのであろうか。『天保会記』という本には「尾張志ニアズカリシ人スベテ八人ナリ」とあり、ここへ出席した8人の歌が紹介されている。

 出席者たちは大仕事を終えてやれやれと感慨にひたっているが、その席で啓の詠んだ歌は次のようなものだった。これで満足などしておられない、むしろ不満がいっぱいである――そんな思いが秘められているかのようでもある。

 此のふみを かきつくせども 所々
      拾ひのこせる 事の多かる

 『尾張名所図会』を書き上げると、今度は『小治田之真清水』に着手することとなった。今度こそは自分の思うがままに作ってみたい――啓にはそんな強い意思があった。それは同書の「叙文」や「凡例」などからも十分に読み取れる。

 「叙文」を頼まれた正韻の子精一はそこで「天保年間出る所ノ尾張名所図会ハ文園(啓)、梅居(道直)二人ノ同撰ナリ。刊行ノ日、文園心ニ於テ慊(あきた)ラザル者有り、是ニ於テ独リ斯編(このへん)ヲ作ラント為ス。命(なずけ)テ曰ク、小治田之真清水ト」とその意を汲んで書き記している。

 啓も「凡例」で『尾張名所図会』が近世現存の人の作まで収録したことを嘆き、井戸田(瑞穂区)に謫居(たっきょ)した藤原師長(もろなが)の絵が僧の姿になっていないこと、あるいは帰化人の陳元贇(ちんげんぴん)が明人の格好でないことなどを挙げ、ここでは自分の考える絵を描かせたことにも触れている。彼は本書によってようやく思い通りのものを作れたのである。

 しかし、『尾張名所図会』では「叙文」を総裁の正韻が書いていたのに、こちらではその息子の精一になっている。『尾張志』編纂中、彼ら上役は啓の意見に「まあまあ、そうも堅いことを言わずとも」などと制する立場にあったことだったろう。権威ある推薦はほしいところだが、敬遠してのことだろうか。

 それにしても50を過ぎてからこうした仕事に打ち込めたのは幸いである。あのとき見いだされていなかったら、啓の名はこの世に残らなかったかもしれない。思い通りのものを作りたいというあくなき探求心は後世のわれわれにとっても大きなプレゼントとなっている。

 その彼も後編の下書きを残したまま、万延元年(1860)にこの世を去った。享年80。心血を注いだ『小治田之真清水』はいまだ形にならず、これが刊行されるのは遙かに遠い昭和時代にまで待たなければならなかったのである。

 「小治田之真清水を原文で読む会」では先ごろからその勉強会を始めた。完全に読み切るには数年かかりそうで、今回から小社の作っている月刊紙『名古屋なんでか情報』で順次活字化してゆくことにした。完結すればいずれ一冊の本にまとめるつもりでいる。

 しかし、難しいことも多い。漢文の個所もかなりあり、また、ワープロにない文字も頻出してくる。なるべく作字するつもりではいるが、中にはそこだけ手書きとなるケースも出てくるかもしれない。お許しいただくとともに、“これから”にご期待下さい。

■テキストはすでに小社で復刻している『小治田之真清水』を使用する。本書は名古屋温古会の本をもとに制作したが、下書きのままだった上4郡は「補遺」としてすでに活字で1冊にまとめられている。全6巻、セット価格1万3500円+税(分売可)。

[第1巻]名古屋、2500円+税 [第2巻]熱田、1500円+税 [第3巻]愛知郡、2400円+税 [第4巻]知多郡、2400円+税 [第5巻]海東郡・海西郡、2400円+税 [補遺]中島郡・春日井郡・葉栗郡・丹羽郡、2300円+税(活字)

 

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