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幻の本『忠義画像』見つかる! |
討ち入り装束を描いた最古の肖像画集
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『忠義画像』を復刻するに当たって鬼頭勝之
まず頭巾の「いろは」文字である。46士は表門組と裏門組に二分されたが、表門組はこの「いろは」が反転していて、裏門組は普通の「いろは」になっている。つまり、表裏と対になるように考えられていて、「仮名手本忠臣蔵」が成立する以前、すでに「いろは歌」に擬(なぞら)える発想があったということである。これは討ち入り時の姿を考える点でも参考になると思われる。 また、大石良雄を兵藤裕己氏の論によりつつ、アウトロー(制外者)の系譜の中に位置づけてみたかったからでもある。楠流軍学者が楠正成(まさしげ)の旗印だったとして掲げた「非理法権天」思想によって、由井正雪と大石良雄の同根性を探り、傾(かぶ)き者の側面をも受け継いでいる幕末の高杉晋作にまでそれが及んでいることを、兵藤氏の指摘を踏まえつつ論じてみたかった。 そして「義士画像」として、よく紹介されている花岳寺の作品が幕末の安政6年(1859)に長安義信によって描かれたものである点も、享保期に成立した本画像を世に送り出す必要性を教えてくれた。これまで知られているものよりも、本書ははるかに古いのである。 本画像の班構成は表門組8班、裏門組7班である。それが討ち入り時には、表門組4班と裏門組3班に再構成されるのであるが、吉良邸までの班が本画像の構成になっていたのではないだろうか。 使用した武器については、槍の多さに驚く人もあるかと思われる。鈴木眞哉氏の『刀と首取り』(平凡社新書)によれば、軍忠状等によって受けた傷を分析したところ、(1)刀が象徴的な存在であること、(2)槍と矢による傷がほとんどで、後に矢が鉄砲に変わったこと、を証明されている。つまり、刀による戦闘は劇と小説の世界でのことであって、現実にはそれほど使用されていなかったのである。 大石の指揮者としての能力はこの槍と、座して使用できる半弓を主たる武器として、実践的戦闘を展開した点に求められるべきなのかもしれない。参考のため今回出版した本には『徹底検証赤穂事件』(成美堂出版)の表に、本画像の班構成と、本画像によって確認できる武器の項目を付け加えておいた。 『忠義画像』の「義士四十六傑画像由緒」によれば、京都紫野の瑞光院(現在は境内に浅野長矩と赤穂浪士の塔と遺髪を納めた塚がある)にあった46義士の終焉の正像(細川家が贈る)を写したものという。その画像は面目・毛髪、少しも本人に違うところがなかった。しかし、質素かつ精密でないので、義士の17回忌(享保4年・1719)に当たり、討ち入り時の姿で描き、瑞光院に寄付しようとしている人がいて、この未完成の作品を写したものが本作品である、と記されている。 本画像を見ると、17回忌に制作されたことと合わせ、真実の姿に近いものと思われる。その上、瑞光院に最初、細川家から寄付された作品も、本画像の元となった作品も、ともに伝来していないため、本作品のみが唯一生前の彼らの姿を写したものとなっているのが現実なのである。
●『忠臣蔵外伝ー「忠義画像」を読む』 |