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10分でわかる尾張藩260年史

尾張は「朝廷の家来」

 名古屋城二の丸に「王命に依って催さるる事」「藩訓秘伝之跡」と彫られた一本の石碑が立っている。ちょうど松の木に隠れるようにしてあり、入城した多くの人たちはこれに目をとめることもなく通り過ぎていく。しかし、御三家の尾張が「朝臣」というのだから、この持つ意味はタダゴトではない。

 初代藩主徳川義直は家康の第九子ながら、幕府何するものぞの気概にあふれていた。三代将軍家光が「余は生まれながらにして将軍の子」と言えば、義直もまた「わが父は権現様(家康)なり」と負けてはいない。甥に当たる家光とはわずか4歳しか離れていなかったのである。

 義直は儒教をたっとび、勤皇の志にも厚い人だった。「朝命に依って」の一文はその著『軍書合鑑』の巻末にこっそり記されている言葉。万が一、幕府と朝廷が争うような事態となれば、尾張は迷わず朝廷側について戦えというのだ。

 「いま天下の武将たちはだれもが公方(将軍)家を主君と仰いでいる。しかし、大名はもちろん三家の者も、公方ではなく朝廷の家来である。幕府は単に政権をゆだねられているにすぎず、それが証拠にわれわれもまた官位を朝廷からいただいているではないか」

 むろん「いますぐに起て」と言っているわけではない。幕府が朝廷と戦うような場合、との限定付きだ。しかし、反逆とも受け取れるこんな物騒なことを、おおっぴらに言えたものではない。

 そこで義直は本の中ではごく基本的なことを書くにとどめ、その子細は家督相続ごとに藩主が新しい藩主へ「口から耳へと伝えてゆけ」と命じている。まさに秘中の秘、一子相伝だ。御三家でありながら「朝臣」という尾張藩の藩訓はこうして始まった。

 

親から子へ、子から孫へ

 極秘の藩訓は二代光友、三代綱誠(つななり)、四代吉通(よしみち)へと確実に伝えられた。が、五代となる五郎太はいまだ3歳。これでは伝えようがない。

 そこで吉通は死ぬまぎわ、侍臣で兵法家の近松茂矩(しげのり)らを枕元に呼んだ。「若君の成長を待って、そちから伝えよ」と語り、父から受け継いだ内容の一つ一つを筆記させた。尾張藩に連綿と伝えられてきた藩訓が明らかになったのは、この近松が晩年になって「円覚院様(吉通)御伝十五箇条」と題してその内容を書き残しておいたからだ。

 それによると、朝臣であるということだけではなく「尾張は平地で討って出るには自由だが、敵を迎え入れての戦いは難しい。信長公のように果敢に攻めよ」「朝廷のために戦って破れるようなことがあれば、そのときは木曽の深山に逃れて時期を待て」など、具体的な戦法についてまで伝えている。

 その五郎太も就任3カ月で死に、六代を継いだ継友(つぐとも)は近松から聞かされたはずだ。そしてこの前後はまた、将軍の座を巡って尾張と紀州が激しく対立していたときでもある。名古屋城本丸に何者かが侵入する事件まで起きたのもちょうどこのころのことで、時が時だけに「幕府の犬か」「紀州の忍びか」と大騒ぎになった。

 そして、いよいよ宗春の登場である。宗春も当然これを聞かされたにちがいない。吉宗にあれほど逆らったのも、尾張は幕府と対等という意識が底流にあったからとみられなくもない。

 兵法家の近松はこのときも宗春に仕えている。どうやら個人的には〃軟派〃の宗春と〃硬派〃の近松とではウマが合わなかったようだが、近松が宗春のかたわらにしばしば登場する記録を見ると、藩訓は確実に受け継がれていたと見てよいのではないか。

 

「尾州、公方に似たり」

 初代義直は家康を見習って堅実を旨とした。宗春は逆に派手な政策を推進した。その宗春の尊敬した人物が義直であり、江戸へ赴くときも留守居役らに「先祖敬公(義直)の遺志にのっとって」とその心得を伝えている。

 宗春は京風文化にあこがれを抱いていた。好んで牛に乗ったのも、その現れとみられなくもない。それどころか、密かに京都にはいったと思われる節すらあるほどだ。

 享保17年(1732)5月のこと。江戸にあった宗春に対し、吉宗から二人の「上使」が差し向けられた。日ごろの派手な行動を諌める、いわゆる「三箇条のおとがめ」と言われるものだ。

 「近ごろの者は三家をどう心得ているのか。いま天下三家と称するものは古(いにしえ)のものとはいささか異なる。権現様は公方と尾張、紀州とをもって三家と定められた」

 宗春は「幕府と尾張、紀州は同格」という、当時としては思ってもいない御三家論を持ち出した。これは義直の考え方でもあったらしく、尾張では藩訓とともに受け継がれていたか。宗春の話術は絶妙で、さらに言葉を続ける。

 「昔は公儀から三家に対して仰せ出された言葉は『御意』と申して『上意』とは言わず、『上使』と言わずして『御遣』と言った。三家の方でも『御返事』と申して『御請』とは申さぬ定め。それが近ごろでは『上使』とか『上意』とか称して三家をまるで家臣扱いなさるゆえ、こちらは勢い『御請』と申さねばならぬ」

 宗春は2人を追い返し、その後も独自の政策を推進した。繁栄する名古屋の現実を前に、さすがの吉宗も手を出せない。そのころ、江戸のちまたにはこんな落首が張り出されていた。

 天下、町人に似たり。尾州、公方に似たり。
   水戸、武士に似たり。紀州、乞食に似たり。

 

血統断絶、尾張藩が危ない

 「王命に依って催さるる事」−−万が一、幕府と朝廷が戦う事態となれば、尾張藩は迷わず朝廷側につけ! 藩祖義直のこうした考えは藩訓として、以降の藩主に口から耳へと伝えられた。まさに秘中の秘、一子相伝だ。

 七代宗春もこれを受け継いだにちがいない。ときの将軍吉宗にあれほど楯突いたのも、背後にこの考えがあったからこそではないか。しかし、さっそうと登場したものの、後に謹慎を命じられ、まるで流星のようにはかなく消えてゆく。

 一方、吉宗は幕府を補佐すべき御三家の筆頭が、逆に手向かったことに大きな衝撃を受けた。当初は宗春の後釜として、わが子田安宗武を送り込む腹づもりでいた。が、尾張藩の必死の抵抗にあい、結局は尾張の支藩高須(岐阜県)から宗勝を迎えることになった。

 尾張は二代光友が幕府の御三家にならい、御連枝(ごれんじ)を創設しておいたのに救われた。御連枝とは美濃の高須藩、福島の梁川藩、それに松平家の三つの分家。これらはいずれも江戸に屋敷があったことから、そこに住む地名を冠して四谷家、大久保家、川田久保家とも呼ばれていた。

 九代を宗勝の子、宗睦(むねちか)が継いだ。この人は新田開発や土木事業に力を注ぎ「尾張藩中興の祖」と言われたほどの名君。が、男子が相次いで死ぬ不幸にあい、高須藩から迎えた子供もこれまた亡くなってしまった。

 尾張藩はここで大きな危機に直面することになった。義直以来、連綿と引き継がれてきた血統が途絶えてしまう。と同時に、極秘に伝えてきた藩訓はどうなるのか。

 

押し付け養子に藩内くすぶる

 十代にわずか8歳の斉朝(なりとも)が就くことになった。彼は前年、一橋家から養子に来たばかりだった。五代五郎太の夭逝、七代宗春の失脚と二度にわたる危機を乗り越えてきた血統も九代、190余年でついに断ち切られてしまったのである。

 尾張藩の悲劇はさらに重なった。斉朝は27年務めた後、その座を斉温(なりはる)に譲り、斉温、斉荘(なりたか)、さらには慶 (よしつぐ)へとバトンを渡してゆく。斉温と斉荘はともに十一代将軍家斉の子、慶 は田安家の出身である。尾張は完全に吉宗の血を引く者たちに乗っ取られてしまったのである。

 これより先、吉宗は将軍の予備軍としてわが子宗武(田安家)、宗 (むねただ、一橋家)に一家を構えさせた。これは御両卿と呼ばれるが、後にこれに孫の重好(清水家)が加えられて御三卿が成立する。〃尾張つぶし〃をねらったものだが、これがとうとう現実のものとなってしまったのである。

 その間、在任中に来名したことのある藩主は斉朝と斉荘の2人、残る2人は〃初入国〃が遺体という有り様だった。反発する藩士たちの中には「金鉄党」が結成され、次第に勤皇反幕へと動き始める。そのころの巷には次のような戯れ歌まで登場するほどだった。

 尾張人 いざ事問わん 御国には
      生きた殿様 ありやなしやと

 こんな状況の中で肝心の藩訓はどうなったのか。まさか幕府側の殿様に「朝臣」であることを伝えるわけにもいくまい。その実態はまったく不明だが、正しく伝えられていなかったからこそ、後に藩論が二つに分かれてゆく土壌ともなった、と言えなくもない。

 4代、約半世紀にわたる天下り人事も、高須藩の慶勝(よしかつ)を十四代に迎えたことで一応の決着をみた。が、時すでに幕末に近かった。勤皇派の「金鉄党」に対抗して金鉄をも溶かせとばかり佐幕派「ふいご党」も生まれ、藩内には息詰まるような緊張状態が続くのであった。

 

秘伝の藩訓、ついによみがえる

 慶応4年(明治元年)1月、京都にいた隠居中の慶勝のもとへ、藩内でクーデターが起きそうだとの密書が持ち込まれた。国元で「ふいご党」が幼君を立て、幕府軍に合流しようとしているというのだ。このとき慶勝は新政府の議定という役職に就いていた。

 急いで帰城すると渡辺新左衛門ら重臣3人を呼び出し、二の丸向屋敷(現在の愛知県体育館付近)で首をはねた。翌日から評定所(現在の産業貿易館付近)に関係者を次々と呼び出し、合わせて11人を斬首してしまった。

 これら一連の事件は青松葉事件と言われ、いまもなお多くのナゾに包まれている。新左衛門らの処刑は「年来姦曲(かんきょく・悪だくみ)の所置これある候につき、朝命により死を賜う」というだけで、何一つはっきりとした理由は示されなかった。しかし、尾張藩には秘伝の藩訓があったことを思えば、こうした処置もおのずと納得がいこうというものだ。

 長年の天下り人事により、藩訓はあいまいになっていた。しかし、それは藩内で密かに受け継がれ慶勝の耳に伝えられたか、あるいはまた、彼が近松の書いた書物「円覚院様(吉通)御伝十五箇条」をその目で直接読んだかもしれない。幕府と朝廷が争い始めたまさに土壇場で、ついに伝家の宝刀が抜かれたのだった。

 それを傍証するのが慶勝兄弟のとった態度である。二者択一を迫られたとき、弟の会津藩主となった松平容保(かたもり)や桑名藩主の松平定敬(さだあき)はともに幕府側について戦っている。同じような教育を受けながらも、彼ら兄弟は二つに別れて相争う悲運の道をたどることになったのである。

 名古屋城二の丸に秘伝の藩訓「王命に依って催さるる事」と彫られた石柱が立っている。そして、その少し南には「青松葉事件之遺跡」と刻された碑もある。しかし、これに目を止める入城者はほとんどいない。

 

 

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