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「自費出版=良書」と言えるのか
中身がなければ意味がない

玉石混淆、自費出版の現実

 人間は欲望の固まりだ。様々な欲と望みがある。これは生きる力ともなるものだから、決してどうこう言う筋合いのものではない。

 「うまいものを食べたい」「きれいに着飾りたい」あるいはまた「いい家に住みたい」。欲望には限りがない。基本的な衣食住が満たされれば、今度は精神的なものが求められてくる。「自分をもっと認められたい」「地位や名誉がほしい」。

 おまけに超高齢化社会とあって、お年寄りは増え続ける一方。しかも昔とは違い、豊かで暇がある。教育も受けてきた。

 こうした中で自費出版が盛んになるのも、当然の成り行きなのかもしれない。著書を持つことは自分を最も効果的にアピールでき、相手に存在を認めさせることにもなるからだ。その意味で出版こそ、最も高尚な欲望の一つなのかもしれない。

 以前、こんな相談を受けたことがあった。その人はコンサルタントの業務をされており、中小企業者などの集まりで講演されることも多いとか。自分が苦労して歩んできた道と、これから何をしようとしているかを本にしたいというのだ。

 ぼくは話を聞いていて、どうせ出版するなら実際の仕事から得た情報や講演での指導内容など、具体的なケースを紹介する実用書にした方がよいと思った。が、それを本にするつもりはまったくない、と言うのだ。なるほど、聞けばそれこそが飯の種であって、本にしてしまったのでは講演の内容が二番せんじになってしまうからか。

 この人が出版を考えたのは、どうやら自著を持つことによりハクを付けたい、というねらいがあったようだ。「講演に先立って紹介されるとき、著書の1冊ぐらいがないとインパクトがない」。とはいえ、1冊書いたぐらいでネタ切れするようでは、もう先は見えているのではないか。

 苦労話や自慢話を本にするにはまだ若すぎる。加えて「書いている暇がない。話したり資料を出すので、適当にまとめてくれ」とも言われた。そんなことでは手間暇ばかりかかり、それこそ「インパクトがない」本にしかなりそうにないので、引き受けるのはお断りした。

 かと思うと、自分の思いを1冊に凝縮した、気迫にあふれるものもある。長年の研究成果をまとめる。わが家や地域の歴史をつづる。作り続けてきた短歌や小説などで「これは」と思う力作を形にする。その内容は様々だ。

 自費出版のいいところは自分が中心であり、思い通りの本を作れることだ。商業出版となると販売をなおざりにできず、どうしても読者を意識せざるを得ない。いい意味でも悪い意味でも、この違いは大きい。

 自費出版の中にはひとりよがりで、読んでいて面白くないものも多い。逆にその純粋性から、商業出版ではやれないようなこともできる。まさに玉石混淆の世界なのだ。

 玉のように優れた本を出せば、たとえそれが少部数であったとしても、見る人はちゃんと見ている。本は独り歩きし、それを必要とする読者のもとへ行ってくれる。一冊の本で人生が変わることだってある。

 ある男性は出版がきっかけとなってカルチャーセンターからお呼びの声がかかり、いまでは講師として掛け持ちで飛び回るほどの忙しさ。子育てについて書いたお母さんは月に1、2回の講演依頼が来るようになった。あるいは自費出版が認められ、出版社から作り直して再刊されたケースもあるし、2冊目以降は出版社から出してもらえるようになった人もいる。玉にこだわれば、こんな話も決して夢ではない。

賽の河原、現実は石ころだらけ

 自費出版物は良書という説がある。確かにエロ本のようなものは出さないから、そこまでは下品で醜悪ではない。しかし、玉となると極めて少ない。

 それが本当に優れた内容のものだったら、出版社が放っておかないはずだ。ぼくのところでも自費出版として持ち込まれた原稿の中にいいものがあり、それが小社の出版路線に合うようであれば、なるべく自分のところから出させてもらうようにしている。出版社は原稿なしで成り立たないというのも、まぎれもない現実なのだ。

 本当に自信のある原稿なら、出版社へ売り込みに行くといい。実際に出版社回りをして、成功したケースを耳にしたりもする。しかし、自費出版の多くは残念ながら出してくれるというレベルにまで達していないのが現実である。

 自分で出す場合、どうしたらよいのか。まず第一は、その人でなくては書けないという、独自性の高いものであることだ。だれにでも書ける内容のものを、わざわざ高い金を支払ってまで出す必要はない。そしてあとの一つは、編集者と二人三脚で進めること。編集者は著者と読者の中間に位置し、専門的な立場から執筆や制作について様々なアドバイスをしてくれるはずだ。

 ぼくの店は地元本の専門店を標榜しており、自費出版物はかなりのウエイトを占めている。著者からの持ち込みも大歓迎だ(当然のことながら、いかに内容の優れたものであっても、東海地方をテーマとしたものに限らせてもらっている)。

 自費出版物であってもお客様の人気は高い。それも当然である。商業出版物のようにどこにでもあるわけではないし、著者ならではのこだわりが秘められているからだ。

 明治の初め、ヤクザなどを組織して討幕軍が組織された。隊員の日記をもとにして書かれたものはあまり類書がないだけに、ぼくの店としてはよく売れている。ただし、初歩的な編集ミスが目立つなど気になるところも多かったりする本だが、それでも滅多にない原石を掘り当てたことで、これは息の長いものになってゆくにちがいない。

 昔の暮らしをまとめた本は新聞で派手な宣伝をしている自費出版請負業者の手になるものだ。誤字や脱字、明らかな変換ミスもあるなど、その荒っぽい本作りには驚かされる。しかし、こんなものでも内容に救われて、それなりに動いている。

 政治家の書いた本の中にもいいものはあるし、無名の著者による優れた文芸作品もある。いちいち書き出せば切りがないが、結局、本は内容そのものにその価値がある。金を使って立派な造本にこるより、頭を使って中味の濃いものにしたい。

 良書か否かを判断するのは読者に他ならない。知り合いの古書店主はよく「われわれは地獄で審判する閻魔様のようなもの」と口にするが、もちろん、その背後には本の読者が想定されてのこと。5年後にでも10年後にでも読まれるような、そんな中身のあるものを目指すべきだ。

 自費出版の中には年とともに価値の上がってゆくものもある。内容が優れていて、希少価値が加われば、それも当然のこと。どうせ出すなら閻魔様を脱帽させてやるくらいの気迫で臨みたいものである。

 

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