残照の徳川宗春・第三話


太次兵衛「馬が嫌い」で減給を希望

 宣揚院の実家三浦家の〃ご子孫〃にお会いした。ヒゲチョンチョンでくくったのは大正2年に八代で断絶、嫁がれた娘さんの系統に当たっているからだ。名古屋市北区杉栄2丁目にお住まいのその人、平尾さださん(80)は「昔のことを聞かれても分からない」と言いながらも、三浦家の系譜や知行宛行状を持ってこられたのには、逆にこちらが驚いてしまった。

 系譜を見ると、初代太次兵衛嘉重は元禄8年5月、成瀬隼人正の同心として200石をもらっている。これは娘宣揚院が三代藩主綱誠(つななり)に見初められて側室となるので、その家柄を取りつくろうために取り立てられたものと推定される。嘉重は「遠州横須賀に居住」とあるが、殿様と名もない娘とを結び付けた〃接点〃は一体どこにあったのであろうか。

 「いいえ、それは聞いておりません。何でも300石下さるとのことだったそうですが、先祖は断ったとか聞かされてきました。300石もらう身分になると馬に乗らなくてはならないそうですわなも。乗れなかったのか、乗りたくなかったのか。あっはは」(さださん)

 知行目録では村中村(小牧市)、田楽村(春日井市)、豊場村(豊山町)の3村から合わせて200石をもらっており、後世、50石加増されて三浦家は幕末まで続く。しかし、仕官のきっかけを作ったと思われる宣揚院について、系譜は単に「宣揚院様」と書くだけでまったく説明が施されておらず、系譜上からこれが宗春の生母であることは読み取れない(他の女性は嫁ぎ先などを明記している)。

 「三浦家のことは聞くこともありましたが、宣揚院様についてはまったくありませんでした。六代嘉延のとき明治を迎え、禄を失って食べていけなかったんでしょうね、奥様が芸者に出られることになったそうですよ。しかし、それでは三浦家の家名を汚すというので離縁して、前の市江姓でお勤めなさったそうです」(同)

 平尾家も三浦家同様、菩提寺は前回紹介した養念寺である。宣揚院を弔うために宗春から同寺へ立派な仏壇を寄進されていたそうだが、残念ながら先の戦災で焼失してしまったとか。「それはそれは大きな、ピカピカのものでした。三浦家の法事のときにしか開帳されませんでしたよ」(同)。境内にあった先祖の墓も「四畳半ほどもある」(同)立派なものだったとか。

 お会いできてよかった。「分からない」とはいえ、それなりの収穫はあった。


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