残照の徳川宗春・第二話


東区に“宗春寺”冨永山養念寺

 『尾張名所図会』に養念寺(名古屋市東区泉三、真宗大谷派)の立派な伽藍と名園「烏ケ池」が描かれている。寺は先の戦争で焼失して再建されたものだが、裏庭はかつての趣をいまに残す。市教委などの史跡散策ルートに組み入れられており、同寺へ足を運ぶ人も少なくない。

 しかし、ここが生母ゆかりの〃宗春寺〃であることは意外に知られていない。生母宣揚院は近くに住んだ三浦太治兵衛の娘で、同家はここを菩提寺としていた。その縁で宣揚院は寺領として米三十石を寄進、寺には葵の紋のはいった什器類なども沢山残されていた。

 「ええ、知行米をいただいた書き付けのほか、宗春公の描かれた掛け軸もあります。しかし、宣揚院がどういうきっかけで三代綱誠(つななり)と結ばれたかについてはまったく聞かされておりません。つい最近まで宣揚院の出自を誤って別の家とばかり思っていたほどですから」=十四世住職冨永伸(のぶる)さん(八〇)=。

 寺宝の中には目を見張るものがあった。宗春筆の画幅「松」「かりと山水」をはじめ、二代光友筆「月と月桂樹」、三代綱誠が八歳のときに描いた「福禄寿」、六代継友の書、谷文晁の絵に添えられた十二代斉荘(なりたか)の歌など。宗春の娘頼姫は関白近衛家に嫁いだが、おそらくその縁によるものであろう、同家から贈られた色紙や紫幕などもある。

 寺が大きくなる背景には宣揚院の力があったかとも思えたが、冨永さんの見方はむしろ逆で「もともと尾張藩とは縁が深く、それで宣揚院の三浦家が門徒になられたのでは」と推定された。現在の東別院は光友から古渡城の跡地を寄進されてできるが、その嘆願に同寺の住職も一役かっていたとの言い伝えも残されているそうである。

 過去帳によると、宣揚院を出した三浦家は八代嘉利氏が大正二年に亡くなり断絶している。先祖代々の墓は平和公園の同寺墓地にあり、いまは嫁がれた娘さんの方の家で管理されているとか。「嘉利さんと六代の奥様がともに市江家から来ており、宣揚院はそちらの出だと聞かされてきました」(同)。

 三浦家が檀家だったことにより、宗春ゆかりのものが残された。しかし、三浦家のご子孫がおられるとは思ってもみなかった。そちらを訪ねれば、ひょっとして何か新しいことが分かるかもしれない。

 

「三浦家は檀家でした」と語る冨永住職と、同寺に残る宗春自筆の絵


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