残照の徳川宗春・第一話


 宗春生母の“実家を見つけた

 宗春の父は尾張3代藩主綱誠(つななり)だが、では生母の宣揚院(梅津の方)とはどんな人物だったのか。尾張藩士の系譜を記した『士林ソカイ』続編で調べてみると、父親はその名を三浦太次兵衛嘉重といい、元禄8年5月に召し出されて家老格の成瀬家より200石を賜っている。宗春の生まれたのが翌9年10月であるから、父の仕官に綱誠側室となった宣揚院が一役買っていたことはまず間違いなかろう。

 では、この三浦一家は当時、名古屋のどこに住んでいたのか。享保17年当時の住宅地図「名古屋図」を開いて見たが、藩士名が米粒にも満たない文字でぎっしり書き込まれていてなかなか見つけ出せない。古地図に造詣の深い永田金一さん(63)=知立市昭和8・1=に助けを求めると「そんな観点から調べたことは一度もなかった」と言いながら、早くも翌朝「あった、あった。ちゃんとありましたよ」と電話で連絡をいただいた。

 三浦太次兵衛の名前は確かに載っていた。高岳院(東区)の西2本目を南北に通る富士塚町筋と東西に走る杉ノ町(魚の棚)筋の十字路から北へはいった3軒目、道路の東側に「三浦太次兵衛」の名がある。その後の地図にも同じ場所にあるが、慶応4年(明治元年)当時を描いた古地図帳「名古屋城下図」では南へ移って十字路の北東角になっている。

 さて問題は、この三浦家がいまのどこに当たるか、だ。古地図と現在の地図とを比べてみるのだが、いま一つはっきりしない。名古屋の都心部はかつての城下をなぞるようにして造られたとはいえ、正確な場所を特定しようとなると一筋縄ではいかない。

 後日、永田さんと二人で現地を訪ねた。古地図と照らし合わせながら割り出したのが、現在の東区泉1丁目7番35号あたり。同地にお住まいの内海ふみさん(82)は「子供のときからここに住んでいるが、そんな話はいっぺんも聞いたことがない。まさかこの場所に殿様(宗春)のお母さんの実家があったなんて」とキツネにつままれたような表情だった。

 しかし、この推理にまず間違いはない。宗春の生母はどういう縁で藩主綱誠に見初められたかは不明だが、それがもとで父親の太次兵衛は成瀬隼人正の配下に組み入れられて200石をもらい、そしてこの地に住むこととなった。マンションに変わりつつある界隈を眺めながら、短冊状に区画された中級武士たちの屋敷にしばし思いを馳せるのだった。

●舟橋武志著「歴史探索・徳川宗春」
名古屋城編(定価1529円)

鬼頭勝之著「宗春の肖像」(定価2040円)も合わせてご覧下さい。いずれも小社刊。また、使用した「名古屋城下図」(蓬左文庫蔵)は小社から復刻出版さたものです(定価3150円)。


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