鷹が去れど・・どこへ行く「まっくふれんど」(3)


「まっくふれんど」はいつも旬。バックナンバーまでが面白い。もう読んでいただけましたっけ。たっぷり在庫を抱えて、みなさまをお待ち申し上げております。


「まっくふれんど」の舞台裏

 「まんくふれんど」はホームレスだ。一応、表紙裏に「まっくふれんど編集室」と書いてはあるが、皆さんの想像されるような特別の部屋があるというわけではない。郵便物などの関係でないわけにはいかないので、便宜上、ぼくのやっているミニ書店をそれに当てているに過ぎない。

 そうとは知らぬ読者が時々「ちょっと近くまで来たから」と訪ねて下さることがある。が、多くの場合は留守であったり(営業は木、金の週2日のみ。ご用の方はこの日においで下さい)、たまたま居合わせたとしても特別のおもてなしができるわけでもない。まったく実態のない、いい加減な編集室なのだ。

 では、どうやって作っているのかと言うと、ぼくと尾曽さんの2人がそれぞれの自宅でコソコソやっているというのが実状だ。「在宅勤務」と言うと時代の花形のようだが、要は部屋を借りるお金がないだけの話。印刷代すらままならないのに、独立した編集室など夢のまた夢である。

 悪いことに2人とも一匹「狼」ならぬ一匹「子羊」の自営業者で、これにかまってばかりもいられない。締め切り日が迫ってくると「そろそろやらないかんなあ」と顔を見合わせて重い腰を上げることになる。こんなものでも1冊の雑誌を作るとなると、それなりの決意と手間暇がかかるものだ。

 仕上げのレイアウトは尾曽さんがページメーカーを使って処理してくれている。本当はぼくもやらなくてはいけないのだが、まだそれは触ったことすらもないシロモノなのだ。プリントアウトされた原稿は2、3度校正し、完全版下の面付けなどはぼくがやって印刷屋に渡している。

 雑誌が製本屋から上がってきた瞬間は何回味わってもいいものだ。すでに何度も読んだ文章ばかりだが、こうして雑誌という形になって出てくるとまた

 が、いつまでも喜びにひたっているわけにはいかない。できてきた雑誌は書店に配らなければならず、これがまた大変やっかいな作業なのだ。2人でいっしょに行動するときもあれば、手分けして別々に回ることもある。

 やってみるとこの作業、なかなかドラマチックだ。前の号が売り切れていれば内心「やったーあ!」と喜び、持ち込んだのがそのままのような状態で残っていると、本屋さんに対して申し訳ないような気持ちになってくる。頼むで何とか売れていてくれ……と祈りつつ訪問するわけだが、どんでん返しもあったりして悲喜こもごものひとときだ。

 こうした直接配本は時間も労力も経費も大変だが、書店の方と直接話をすることができるという大きなメリットがある。本誌の売れ具合や他誌の動向、さらには本誌への批評やアドバイスなどをいただくこともできる。ましてやこちらが恐縮するほどのポップを作って、平台の一等地にドーンと置いてもらえたりするのは、直接配本ならばこそ、である。

 いまのところ置いていただいている書店は県下で20店くらいしかないが、ゆくゆくはこれを100店ぐらいにしたい。書店の担当者と対話ができ、ひいては読者の顔の見える地元を押さえないことには、展望が開けてこないからだ。愛知県以外の地域は「地方・小出版流通センター」のお世話になっているが、こちらの方は500書店ほどにチラシを配布して注文をもらっている程度である。

 雑誌を持ち込んで一番びっくりされるのは、およそ商品となりそうにもないような、あまりにもみすぼらしいものであることだ。創刊以来、親しい仲間からは「よくもこんなものを書店に持ち込んだなあ」と感心され、別の人からはインターネットのホームページで「それはとても雑誌とは認めがたい、実にオソマツなものでした」と紹介されてしまった。周りの人たちから「せめて表紙ぐらいはカラーにしてやらないと……」と〃忠告〃されることもしばしばだ。

 が、ぼくはいまの一色のままで、当分はいいと思っている。実際、カラーにすれば見栄えもよくなり、多少は売り上げも伸びるかもしれない。しかし、カラーにすれば印刷の経費はもっと増えるし、それに見合った売り上げの保証があるというわけでもない。

 これまで背伸びした雑誌作りが災いして、号を重ねるごとに粗末なものになり、ついには廃刊というお決まりの竜頭蛇尾パターンをよく見てきた。立派なものを出したいという気持ちも分からないではないが、それを継続できなかったらもはや雑誌とは言えない。そのようなはかない道を選ぶより、粗末なものでもいいから執念深く出し続け、その過程で次第に成長していけるような雑誌にしたいと思っている。

 印刷代すらペイできていない現状ではまだ無理だが、カラーにするゆとりがあるくらいなら、その前に執筆していただいている方々に例え少額でもいいから原稿料を出したい。何となれば、執筆者こそが一番の支援者であり、功労者であるからだ。そうしたご期待に添えるようにこれからも頑張るし、執筆していただける方は健筆をふるって内容面から応援してほしい。

 尾曽さんとの二人三脚では「3号雑誌」の壁をどうにか乗り越えることができた。いまはまだ同人誌に毛の生えたようなものではあるが、書店の店頭に並び始めたというのは紛れもない事実だ。ホームページご愛読のみなさん、「まっくふれんど」の<アれから>にご注目下さい。

 死に行くもの、生まれ出るもの

 先ごろ、ぼくのやっているミニコミ「月刊マイタウン」の廃刊を決意した。最後に出したのが平成7年の11月だから、約1年間、完全に休んでしまったことになる。これまでも休刊はしばしばあったが、こんなに長いブランクは初めてのことだ。
 
 それが原因ともなって、今年はずっーとノドに小骨が突き刺さったような状態だった。食べたいけど食べられない、出したいけれども出せない。イライラした気持ちが心の底にたえずあったが、廃刊を決意したとたん、急に気持ちがラクになった。

 申し訳ないと思うのは、読んでいただいている人たちのご期待に添い得なかったことだ。少ないと思われるかもしれないが、ぼくにとって200余人の購読者は大変な数であり、有り難い方々だった。先日、勝手ながら廃刊のわび状に購読料を精算して、ひとまず幕を引かせてもらうことにした。

 思えばマックと付き合うことになって、今年はめちゃくちゃ忙しくなった。さっぱり訳が分からず、振り回され通しだった。おかげでそれまで見向きもしなかったような雑誌や本を買うはめになり、本棚のムードも何だか変わってきてしまった。

 さらに悪いことにパソコン通信を始め、これが忙しさに拍車をかけることとなった。メールが日に10数通来て、返事を書くのに大わらわ。これに手紙や葉書を加えると日に2時間ほどとられることもあり、午前中があっという間に過ぎていく。

 棺桶にはいる前に自分の人生を振り返る時間があるとしたら、ひょっとすると1996年という年はぼくにとって特筆すべき年になっているかもしれない。今年はいろいろなことがありすぎたが、その中でもやはり忘れられないものの一つは長年続けてきた「マイタウン」をやめにしたことだろう。あと3号出せば100号の大台に乗せることができたのに、その3号を出すだけの気力が今度ばかりはどうしても湧いてこなかった。

 廃刊を決意した理由は二つある。

 一つはほかでもない、この「まっくふれんど」を創刊したことだ。これが「マイタウン」の代用を果たしてくれることとなり、あえて二つ出す必要はなくなってしまった。「まっくふれんど」がパソコン雑誌に徹底していないのも、根底にこんな不純な動機があるからでもある。

 一応これでもモノを書くことをショーバイとしている。仕事のために書くのは難しく、なかなか思い通りにはならない。相手のOKが出なければ、いくら書いても金にならない世界なのだ。

 そこで自分の書こうとする意図と相手側の希望を充たそうと、両者の狭間で四苦八苦することになる。そんな作業を毎日のようにしていると、イライラは募ってくるばかりだ。その点、遊びで書ける媒体があるということはストレス発散にもってこいで、「まっくふれんど」が「マイタウン」の代役にされてしまっているのは、パソコン雑誌を期待する読者にとってはある面で悲劇なのかもしれない(ゴメン)。

 そして、いま一つの理由がインターネットのホームページを知ってしまったことだ。正直言って、こんな世界があるとは知らなかった。その素晴らしさにびっくり仰天したが、これを知ったらグーテンベルグだって腰を抜かすにちがいない。

 原稿を書くのはまだいいとしても、それを読者に届けるには大変な努力がいる。完全版下を作り、印刷し、手で折って、封筒に入れ、郵便局へ行って、「別納」のスタンプを押して。わずか200部でもこの一連の作業はわずらわしく、いま思い返してみると10何年もの間、よくやってきたものだと思う。

 もっとも、やっている渦中では苦労を苦労とも思わなかった。むしろその作業が一種の快楽であり、月々の儀式にも似た恒例行事であった。印刷代や郵送料など資金面での負担はばかにならなかったが、随分ぜいたくな道楽をしてきたのかもしれない。

 ところが、ホームページはそうした面倒な過程を一挙になくしてしまった。同時にそれは「マイタウン」発行の意欲までなくしてしまうほど強力なものだった。万が一、マックなんかと出会わず、インターネットもホームページも知らなかったら、案外いまもシコシコ出し続けていたのかもしれない。

 先ごろ曲がりなりにもホームページを立ち上げた。今度は「マイタウン」に代わるものとして、ホームページ作りに本腰を入れて取り組んでみたい。こちらの方がはるかに便利だし、そして、多くの可能性があるように思う。

 が、いずれはまた活字が恋しくて、帰ってくることになるかもしれない。そのときはまたそのとき。「マイタウン」の復刊号を出すことになるとしたら、多分、98号からとなるにちがいない。

 夢開くか?ホームページ

 先日、ぼくが主宰している勉強会「大人の学習塾」でホームページ制作教室を開いた。いや、ぼくがやったというのではなく、この日、講師を務めていただいたのはこのホームページを作ってもらい、『まっくふれんど』の「お仕事の周辺」でお馴染みの編集プロダクション「玉手箱」代表の垣添始氏。ホームページのイロハからサーバーに送るまでを、1日でマスターしてしまおうという、何とも欲張った「地獄の特訓」だ。

 彼とはまだ若かったころ、いっしょに仕事をしていた間柄である。ぼくの周りにいた編集仲間の中でも、ワープロを一番早く買ったのが彼だった。当時、CMであの大きな高見山が小さなオアシスを肩に担いでヒョコヒョコ踊って話題になってはいたが、ぼくはあんなフザケタものをライターたちが飛び付くものかと達観していた。

 が、彼にそれを目の前に見せ付けられ、びっくり仰天してしまった。何に感動したかというと、プリンターできれいな文字が簡単に打ち出されてくることだった(いま思えば16ドットのオソマツなものだったが)。そしてぼくはとっさに思った、「これがあれば写植代がいらなくなり、いま作っている個人通信をもっと安く作ることができる!」と。

 あろうことか、キカイをまったくバカにしていたぼくが、彼の買ったものよりももっとよい、オアシスJという当時としては高級機種のワープロを買ってしまっていた。こちらは24ドットでプリントアウトされ、版下にするには見栄えもよい。ただそれだけの理由で、当時の金で150万近くをフンパツしてしまった。後でローンの返済にクローすることになるのだが、この導入でそれまでなかなか出せなかった個人通信を毎月出せるようになった意義は大きかった。

 しかし、こちらは天性の!?キカイ音痴。あれから10何年たったのだろうか。垣添氏はホームページを作り、MS-DOSのプログラムを作る電脳人間になっていた。それなのにこちらはどうにかワープロだけはモノにできたものの、いまだにマックの入口でさまよっている有り様。かたやホームページの作り方を教える人、こなた教えてもらう人−−この差はあまりにも大きく、そして情けない。

 さて、その日の勉強会には7人が参加、午前10時に開講して午後7時までかかって、どうにか簡単なものを立ち上げるところまできた。参加者の一1人、本田さんの作品をサーバーに送り終え、インターネットの画面でそれを再確認したときの感動はなかなかのもっだった。垣添氏から「1人だけ落ちこぼれていた人がいた」と指摘されてしまったが、どうにかマスターすることができたのは、ぼくにとっても非常に有意義な1日であった。

 受講者の中には超個人通信「ルンペン通信」の発行人、都香鞍(つかくら)セーネンもいた。マックと出会ったことによって休刊していた通信を甦らせたという人だけに、原稿を書くのも作り方を覚えるのも、さすがに速くてうまかった。いまに第三の扉を開き「ルンペン通信」のインターネット版を発信し始めるにちがいない。

 インターネットのすごいのは情報の発信をいとも簡単に(いや、本当はケッコー難しい)、しかも極めて低コストで可能にしてしまったことだ。メールと結び付ければ、送り手と受け手が相互に交流し合うこともできる。情報発信をこれほど手軽にしたのはこれまでに例がなく、インターネットのホームページは「情報革命」「出版革命」と言ってもよいほどのシロモノだ。

 とりわけミニコミの作り手や市民運動などに携わる人々には願ってもないものだ。ここでは組織の大小、資金力のあるなしにかかわらず、だれもが同じ土俵に上がることができる。インターネットのそんな可能性に大きな期待を寄せながら、参加者たちは垣添氏の繰り出す様々なワザを懸命に学び取ったのであった。

 勉強のかいあって何とか発信できるようにとなると、これまでかけ声だけだった「まっくふれんど」のホームページ開設の夢が急に現実味をおびてきた。無鉄砲が唯一の武器だけに、早速、尾曽さんを責任者にして近く発刊することにした。これがスタートすれば「まっくふれんど」は本誌とバソコン通信のホームパーティ、それにインターネットのホームページと3つのメディアを持つことになる。

 やるとなればホームパーティがそうであったように、ホームページならではのものを作りたい。ああもしたい、こうもしたいとぼくなりにアレコレ考えてはいるが、みなさんもいいアイディアや面白そうなネタがあったらどんどん提供してほしい。そして、いまのホームパーティにも似たワイワイガヤガヤやれる、第二の井戸端会議の場を持とうではないか。

 夢のようなことを書いていたら、郵便屋さんがやってきた。たくさんの手紙の中に「まっくふれんど」を作ってもらっている印刷屋の請求書が交じっており、急に現実に引き戻された。ああ、なんてこった、また支払い日がくる。

 ことはそれだけではなかった。昼からは宅配便が来たが、それは「地方・小出版流通センター」からの返品だった。そしてこれ以降、さみだれ式に返品が来ることになろうとは−−。




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