どこへ行く「まっくふれんど」(2)


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 幻の「非再販雑誌」第一号

 「舟橋君、一度やってみるかい。以前は断ったけど、非再販の雑誌ということで」

 「地方・小出版流通センター」(以下「地方・小」と略)に『まっくふれんど』の取り扱いを断られた経緯については前回に述べた。それがどういう風の吹き回しか、代表の川上さんから電話がかかってきた。二号から非再販本として全国の主要書店約百店に流そうというのだ。

 もちろん、こちらに断る理由などはない。二つ返事でOKした。掟破りとも言える非再販本というのも、むしろこちらの望むところである。

 「それじゃ、いまのようなペラペラじゃなくてA5判にし、せめて背表紙が見える厚さのものにしてくれ。棚に差しても分かるように、な。定価や仕入れ値などはまた後で考えるとして、じゃ、その線でいっぺん当たってみることにするから」

 このときすでにB5判で版下を作りかけていた。また初めからやり直しだ。第二号が予定より大幅に遅れてしまった原因の一つが実はこの「全国発売」にあった。

 川上さんが重い腰を上げてくれたのは『まっくふれんど』の創刊号が意外売れているという事実だった。試しに置かしてもらった同社の書店「書肆アクセス」では完売していたし、それに取引のある名古屋の書店からも似たような情報がはいっていたのだろう。こちらからも予想以上に売れていることを的確に、そして怠ることなく伝えてあった。

 川上さんは取次や書店組合、あるいは公正取引委員会などの関係機関にも相談してくれたらしい。概要はその都度伝えられてきたが、二転三転、それがなかなか決まりそうにない。こちらの編集作業は完全に宙に浮いた形になってしまった。

 ぼくは雑誌の非再販というのがすごく気に入っていた。本や雑誌は再販売価格維持制度(再販制度)によって、メーカーである出版社の指定した定価で販売することが公認されている、数少ない商品の一つだ。今回のタクラミはその優遇制度を自らの手で放棄し、書店に自由な値段で売ってもらってもよいという大胆な常識破壊だ。言ってみれば、マックのパフォーマに見られるオープンプライスと似ている。

 それにはこちらの要求も当然のことながら盛り込まれてくる。大前提となるのが販売責任の明確化で、原則として返品は受け付けない(買い切り)。その代わり安く出荷することになるのでマージンは多く、値付けも店側の自由裁量ということになる。

 川上さんと何回か連絡する過程で、「地方・小」へ定価の四〇%で卸すという線が出てきた。正直言ってこれはかなりキツイが、無駄な返品がなくなればそれも捨てたものではない。部数増とコストダウンにより、まだ何とか乗れる話だと思っていた。

 詳しいことはこちらでは分からないが、非再販雑誌に難色を示したのはどうやら書店組合の方だったらしい。いま業界は出版社や取次、あるいは新聞社なども一丸となって再販制度の死守に血眼になっている。それは聞く耳は持たないという、一種のヒステリー状態にあると言ってもよいほどだ。

 しかし、規制緩和は時代の大きな流れである。だから非再販本が出てくるのは仕方がないとしても、吉本隆明のようなメジャーな人ならいざ知らず(単行本ではすでに『吉本隆明インタビュー集−−学校・宗教・家族の病理』が出ていた)、聞いたこともないような出版社や雑誌がいきなり薮から棒を突き出すような状況が面白くなかったのかもしれない。かつて心臓移植が東大や慶大などの有名医学部ではなく、とんでもないところで行われてしまった驚きのようなものか。

 川上さんは方向転換して「時限再販」−−発売一か月は定価販売、以降は自由価格という形を模索してくれた。が、これも相手を説得するには至らなかった。考えてみれば雑誌の非再販は初めてのケースで、卸値体系や価格の表示方法、返品問題など、時間をかけてクリアしなければならない問題があまりにも多過ぎた。

 泰山鳴動してネズミ一匹、結局、第二号は通常通りの流通ルート(「地方・小」→取次→書店)で出してもらうことになった。掛率は通常よりも低い六掛で「地方・小」へ出荷するという、何だか薮をつついていたらとんでもないヘビが出てきた感じがしないでもない。しかし、この号から全国の主要書店に曲がりなりにも並ぶことになり、一つの大きな前進となったことは間違いない。

 再販制度は本当に必要なのか

 出版界はいま、挙げて再販制度の廃止に大反対だ。ある新聞社の記者が本の再販に関する記事を書いたら、有無も言わずにボツにされたという話も耳にする。現在の新聞や雑誌、本などにこうした意見はまず取り上げられない。

 一見、進歩的に見える業界も、それが自分のこととなると、それほどに保守的なのだ。いわく「再販が廃止されれば安売り合戦が始まる」「小さな書店や出版社はつぶれる」という業界防衛論から「本は文化で一般の商品とは違う」「専門書が出しにくくなる」「地方との格差が生ずる」といった出版文化論まで。あえて誤解を恐れずに言えば、再販制度がそれほど有効なもので、必死になって守らなければならないもとも思えない。

 ぼくのところなど日販やトーハンに口座がなく、いまだに本をスムーズに流せないでいる。再販制度で「擁護」してもらおうにもその土俵にすら上がれないでいるし、むしろそれがあるためにかえって障害すら出てくる。いま声高に「廃止反対」を叫んでいる人たちは既得権の上にのっかって、その恩恵に浴している恵まれた人たちなのだ。

 「地方・小」ではインターネットのホームページで再販に関する意見を求めている。それによると、ほとんどの人が「再販の見直しは必要」とし、様々な理由を書き込んでいる。そこに寄せられるのはそうした意見の人が多いのは当然のこととしても、それにしても新聞や業界紙などの書く意見とはあまりにも大きな隔たりがあり過ぎる。

 この問題に関心のある人はぜひ一度、同社のホームページをのぞいてみてほしい。ただ一つだけ触れておくと、見直しの理由として「本の定価が高い」ことをあげている人が多いが、本の値段は決して高くない。欧米などと比べればはるかに安いし、国内的にもこのことは演劇やコンサート、映画などと比較してみても分かる。問題は全員横並びの「定価」と硬直化してしまった流通形態なのだ。

 昨年、ぼくの友人が詩や評論を主体とする専門書店「書物の森」を開いた。その彼を一番嘆かせたのは、ほしい本を買おうとしても取引に応じてくれない出版社があることだった。そのうちの何社かから「取次に発注してくれ」とのことだったそうだが、ここでも肝心の取次に口座は開かれていなかった(同店では最近になって変則的ではあるが日販と取引が始まった)。

 ぼくも郷土史関係のミニ書店をやっている。こんな店でもテーマさえ合えば、ときには三十冊や五十冊くらい売れる本もある。それを現金で仕入れてよいと思ってもなかなできないし、一冊だろうが三十冊だろうが同じ掛率というのではやる気をそがれてしまう。

 再販制度のもとでの硬直したシステムでは専門店が生まれようもない。仕入れ部数や支払い形態などに応じた、もっと多様で簡素な流通が考えられてしかるべきだ。それなのに書店の現場からこうした声が一向に上がってこないのは、その背後に再販制度があってガンジガラメに規制され、そしてそれをよしとしているからだ。

 再販制度が廃止されれば「堅い本を出版しにくくなる」という意見もよく耳にする。この点についても、ぼくはむしろ逆に見ている。人の行く裏に道あり花の山で、どこの店にもないとなれば、それを積極的に扱おうとする店が必ず出てくるはずだ。

 こうした動きは出版する側にしても同じようなことが言える。本は代替性がないだけに、いいものを作ればかえって有利になることだってある。それに出版社は新聞社やラジオ、テレビ局などとも違って、大資本を必要としないし許認可などの規制もない。だれもが比較的簡単に始めることができるので、少部数の良質な本を出す出版社がなくなってしまうとは考えにくい。

 いささかノーテンキのように思われるかもしれないが、規制のワクをはずせばもっと自由で活発な活動が期待できるはず。試しに一度やってみるとよい。それがうまくいかなかったとしたら、その時点でまた考え直せばいいのではないか。

 漂流始まるか『まっくふれんど』

 何だかとんでもない方向に話が進んできてしまった。再販問題となると話がカゲキになり、まとまりのないことを書いた嫌いがないでもない。とにかく言いたかったのは、いまの新聞や業界紙の論調が決して読者の望む方向と一致するものではない、ということだ。

 だから『まっくふれんど』に白羽の矢が立ったとき、まさに「望むところ」とばかり、もろ手を挙げて賛成した。が、現実はぽっと出の小さな雑誌にとって、それほど甘いものではなかった。何しろこちらはいつ難破してもおかしくない、そよ風が吹いても引っ繰り返りそうな小舟なのだ。

 不幸にも、わが国最初の非再販雑誌は幻で終わってしまった。これから日本出版流通史を書く人がいたとしたら、そんな水子がいたことを少しは記しておいてほしい。いや、これは悪い冗談だが、規制の壁を打ち破るにはこちらがあまりにも無力だった。

 破れかぶれのついでに言うと、この再販制度を逆手にとりながら、出版社にも書店にもタメになるいい手がある。それは書店と直取引をすることにより、買い切り(返品なし)で定価販売をすることだ。出版社からの発送は宅配便の業者にでも頼めばよい。

 もちろん、販売実績に応じて掛率は違ってくる。『まっくふれんど』の場合なら、三十部までが定価の七掛、百部までが六掛、三百部までが五掛、それ以上となれば四掛といったところ。これなら書店もケッコーやる気が出てくるのではないか。

 もっとも、それを実行するには店頭で売れる雑誌を作らなければならない。が、こんなことはどんな流通形態をとるにしろ、雑誌や本も一つの商品である以上、ごく当たり前のことだ。再販制度がなくなればモノマネの安易な企画は通用しなくなる一面も秘められており、より性根をすえたものが求められもくるという、業界の主張とは逆のいい面も出てくるのではないか。

 出版社も変わらなければならないが、同時に書店もまた変わらなくてはならない。売れなければ返品するという安易な姿勢はこうした世界ではもう通用しない。責任仕入れ・責任販売がトーゼンのこととなり、店員一人ひとりが販売のプロであることを要求されてくる。

 出版情報紙「新文化」は八月一日付の号で「今夏の書籍返品率は記録更新か?」とオソロシイ予測を立てている。十年前に返品率が五〇%を越えて業界は大騒ぎをしたが、へたをすると今年はそれを上回る勢いらしい。出版する側にも販売する側にも返品ほど無意味で無駄なものはなく、再販制度とそれを補完する委託制度の最大のヘーガイと言わざるを得ない。

 それを打破するためにも直取引・定価販売の「破れかぶれ」構想は面白いと思うが、これを実行するには「地方・小」ひいては取次(通常ルート)との両刀使いは不可能になる。直取引で流した商品が通常ルートで逆流してくる可能性があるからだ。決して実現不可能なものではないが、結局、この構想もはいまのところ「絵に書いたモチ」と言わざるを得ない。

 ぼくの特技はビールを飲みながらでも原稿が書けることだ。書いていてだんだん酔っ払ってきた。いままで書いてきたことは酔っ払いのタワゴトであり、真夏の夜の悪夢として笑い飛ばしていただきたい。

 先の見えないまま『まっくふれんど』はすでに大海にこぎ出した。「創刊やり直し号」として、タイトルの書体も判型も変えて。さて、難問を抱えてこの後どうなるか。

 三号雑誌の壁はまだ眼前に立ちはだかっている。酔いにまかせて大きなことを書いてしまったが、ひょっとするとこれが最後の号となってしまうかもしれない。今後の行く末は他人ごとのあなたには本誌の内容以上に、はるかに面白いものとなってゆくにちがいない。



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