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将軍毒殺

■これは作り話や白昼夢などではない
驚天動地の大事件が
密封されたままになっていた!

 安永6年(1777)10月、名古屋は開府以来初めての物々しい雰囲気に包まれた。江戸町奉行の曲渕甲斐守が与力10人、同心50人、それに自分の手下多数を引き連れ、熱田の宿に乗り込んできたのだ。それらの中には弓矢や鉄砲を手にした者もいる。

 名古屋の出入口に当たる熱田口や枇杷島口、清水口、川名口などは厳重に固められ、その他城下の要所要所にも見張りが置かれた。通行人は名前などはもちろんのこと、所持する風呂敷包みなどもいちいち開けさせられ、とりわけ武士に対しては厳しかった。

 6月6日夕方、曲渕甲斐守は40人ほどずつの三手に分け、大津町1丁目東側の河村復太郎、京町の蘇森長秋・子桂親子、瀬戸物町の安西文兆の逮捕に向かった。すでに尾張藩の江戸藩邸には幕府から通達され、このことは早馬で知らされている。手入れ直前の5日には目付役の平沢只左衛門が名古屋城に入ってこれを知らせているが、何分、幕府のこととて見守るより手はなかった。

 河村復太郎は秀根の名でよく知られている。かつて七代藩主宗春の小姓としてかわいがられ、その謹慎中は役職に就くのも断って近侍したほど。この家は学者一家としても名高く、親子で研究した『書紀集解(しっかい)』は本居宣長の『古事記伝』と並ぶ名著とされている。

 一行は河村宅に踏み込んだ。このとき復太郎はあいにく留守中で、伝馬町の飛脚福沢屋へ行っていた。彼は歌道の師である京都の冷泉家と盛んに文通しており、手紙を手渡したあとは酒を飲んでくつろいでいた。

 彼らはすぐさま福沢屋へ走った。仰々しい一行に驚いた復太郎が「何事か!」と一喝すると、捕方の一人が「勅錠(天皇の命令)なり!」と叫んだ。「勅錠のあるべき理由なし!」と言い返され、あわてて「御用なり!」と言い改める一幕もあった。

 河村も武士のはしくれだ。刀の柄に手をかけ、戦う構えを見せた。捕方はすかさず四方八方を囲み、取り押さえてしまった(一説には大立ち回りとなり、復太郎自身も浅手ながら傷を負ったとも)。

 これに対して他の三人は簡単に捕まっている。蘇森長秋・子桂親子と安西文兆はともに城下に住む町医者である。文兆の父文良は苦学のすえに名医となり、名古屋城に出入りを許されるまでになっていた。その子文兆には姉と妹がおり、姉が蘇森子桂の妻となり、妹の浅路が九代藩主宗睦(むねちか)の側室となっている。

 京町の蘇森宅を急襲したとき、折しも長秋は家を出ようとし、息子の子桂は帰ってきたところだった。親子はあっさり御用となった。瀬戸物町にある安西宅にも多数の捕方が出向いたが、在宅していてこれまた簡単に縄をかけられている。

 三人の住んでいた大津町・京町・瀬戸物町はいずれも現在で言う中区丸の内3丁目地内にある。商人など町人の住むこのあたりに復太郎がいるのは意外に思えるが、下級武士の中にはこうした者もいたようだ。京町近辺には薬酒商が多く住み、医者にとっては格好の地だったにちがいない(薬の町として名高い大阪の道修町〈どしょうまち〉にも似て、ここには現在も多くの製薬会社がある)。

 この大捕り物は名古屋っ子に寝耳に水だった。尾張藩士の高力猿猴庵(えんこうあん・種信)はその日記『金明録』に書いている。これは「御畳奉行」ですっかり有名になった朝日文左衛門(重章)の『鸚鵡篭中記(おうむろうちゅうき)』にも負けないほどの記録で、もっと注目されてよい史料だ(文左衛門は元禄時代の人で、猿猴庵はこれより少し下る)。

 10月6日「捕手の者大勢、京町筋大津町辺、両方の宅近くに待合せ、六ツ比(ごろ)門を叩き候へば、女出(いで)しを、我は本屋より用事有て参候由いふ。此節、河村又太郎は伝馬町福沢屋へ参りしと女中申ゆへ、直に福沢屋へ込入て、酒呑居たる所を召捕る」  10月10日.「江戸表へ蘇森父子、安西文兆、河村復太郎、各、板乗り物にて参り候」

 犯罪者が「宅配便です」と言ってドアを開けさせるように、「本屋です」と言ったというのが面白い。学者でもある復太郎は貴重な本をたくさん持っており、本屋と言えばすぐに出てくると思えたのだろう。罪人である4人は「板乗り物」で江戸に送られることになった。

 しかし猿猴庵自身、この事実を見たり聞いたりはしたが、どういう理由でこうなったかは知る由もない。それも無理からぬこと。当の尾張藩も江戸詰めの竹腰山城守、石川伊賀守が江戸城へ呼び出され、老中から通告されるまではまったく把握していなかったのである。

 城下ではこの日逮捕された4人を中心にして、幕府の乗っ取りが画策されていた。発覚のきっかけは十代将軍家治(いえはる)の毒味役が一口二口食べたところ、血を吐いて狂い死にしたことからだった。台所仕事に携わる全員が召し捕らえられ、一人一人が厳しく追及されることになった。

 そのうちの一人、飯沼貞助という男が拷問に絶えかねてついに白状した。貞助は先の4人が送り込んだ刺客で、御膳奉行に取り入って料理方になりすましていた。このとき、貞助の行動を巧みに支援した源吾なる人物も捕まっている。

 江戸に連行された4人は厳しい取り調べを受けることになった。人権の尊重される現代とは違って、それがいかに過酷なものだったかは容易に想像できる。加えて幕府には、この事件の背後に尾張藩がかかわっているのではないか、との強い疑念があった。

 蘇森長秋と安西文兆は連日にわたる拷問にあって獄死している。死体は千住ケ原に捨て置かれた。江戸詰めだった尾張藩士の芦沢六郎右衛門という人がこれを哀れみ、百匹で買い取って手厚く葬った。

 俗説ではその夜、二人がそろって芦沢の夢枕に立ち、かしこまってお礼を述べたという。二人はその場で秘法の丸薬について語り、その作り方を伝授して消えたとも伝えられている。芦沢六郎右衛門がどのような人だったかは知りかねるが、ある史料に「御館の預り主芦沢某」とあるところを見ると市ヶ谷藩邸の責任者と関係のある人物だったかもしれない。

 浅路の兄である蘇森子桂は事件の主犯格とみなされ、安永7年2月、江戸市中引き回しの上、3月に尾張藩の刑場である土器野(かわらけの、清須市土器野)で獄門に処された。このとき、公儀の罪人であるところから、獄門台などはわざわざ江戸から持ち込まれている。

 首は同月7、8、9の3日間にわたってさらされた。このことは高札によって予告され、一目見たさに多くの人が集まった。しかしその後、どこに埋葬されたかまでは知らされておらず、土器野に埋められたとも、天領である美濃の笠松に埋められたともうわさされることになる。

 もちろん、高力猿猴庵もこんな大事件に無関心でおられるはずがない。その日記に「御国初めて此かたの大珍事也」として次のように書いている。

 「科(とが)の次第、高札、海道に建、御仕置場より手前の方、畑に小屋を立て、江戸表よりの役人、ぶつさき羽織を着し、高桃灯・幕を打、夜番をなす。大分の見物なり」

 河村復太郎もまた彼らと同様、厳しい取り調べを受けた。しかし、獄中にあっても落ち着き払い、得意の笙(しょう)の譜を唱えて悠然としていた。裁きの場でも彼らに利用されただけであることを堂々と主張し、危ないところで一命を救われている。

 容疑が晴れて復太郎は安永6年の12月9日に釈放された。市ヶ谷の藩邸に帰ると、一室に閉じ篭もって謹慎した。年末に味わうお屠蘇(とそ)のもちや、ふくらみかけた庭の梅が無事であったことを改めて実感させてくれたにちがいない。

   若かへる春待えんと年の内に
      ほほゑむ梅の色ぞうれしき

 

■背景に宗春時代へのあこがれと幕府への反感
宗春、亡霊となって殿中を駆け巡る

 この事件の底流には宗春とその時代へのあこがれがあった。宗春は死後も罪人として墓に金網がかぶせられていたが、それが許されるのは事件の発覚よりもはるかに後の文政4年(1821)のことである(金網がはずされるのはついに許されず、戦後までもそのままにあった)。ちまたでは『夢の跡』が書き写されて懐かしがられ、それは幕府への反感へと繋がるものでもあった。

 そうでなくても尾張は何かにつけて幕府と対立することが多く、両者は疑心暗鬼の危うい関係に置かれていた。初代藩主義直と三代将軍家光、宗春と吉宗はそれが最も顕著に現れたものだ。幕府の思うがままにしかできないこのころの藩政に、不満分子はしきりに歯ぎしりをしていたのである。

 「第一部・宗春無残」「第二部・当世名古屋元結」「第三部・宗春の逆襲」の3部構成でお贈りする『将軍毒殺―実録・名古屋騒動』にご期待下さい。まずは第一巻こっそり発売中(2940円)。

 

 

■将軍毒殺
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