そんなバカな? 大企画のおそまつ……




 『尾張名所図会』に魅せられて

 『尾張名所図会』という古典的とも言える本がある。出版をやり始めたころ、最も魅せられた本の一つだ。それは江戸後期に出されたもので、挿絵入りの楽しいガイドブックでもあった。

 この種の「名所図会」は当時、各地で出版された。その先鞭をつけたのが秋里籬島の『都名所図会』(安永9年・1780、6巻)であり、彼はこのヒットのおかげで『東海道名所図会』(6巻)や『木曽路名所図会』(6巻)などを次々と著すことになる。いわば「名所図会」の生みの親ともいえ、以降、これに似た『○○名所図会』の出版はあちこちでブームとなった。

 『尾張名所図会』もそれに刺激されて出されたものの一つだが、他の「名所図会」とはその内容を大きく異にしていた。前編7巻、後編6巻の全13巻に、拾遺版『小治田真清水(おわりだのましみず)』(8巻)を加え、他の追随を許さぬボリューム。筆者や絵師などが連れだって旅をし、それをもとにして書いたようなものとは訳が違っていた。

 これを作ったのは岡田啓と野口道直の2人。岡田は尾張藩が作らせた地誌『尾張志』の編者の一人であり、野口は西枇杷島にあった青果問屋の主人である。この本の編纂にあたっては『尾張志』を作ったときの資料も存分に生かされており、後編6巻の巻末にあげられている参考文献は実に836点にも及んでいる。また、野口は資金面でも面倒を見ることになるが、あまりの出費に本業の名門青果問屋が傾くほどの力の入れようだった。

 成立は天保12年(1841)と見られるが、後編は愛知県庁によって明治13年に出されている(前編の刊行は天保15年)。このとき岡田、野口の2人はすでにこの世の人ではなかった。拾遺版『小治田真清水』に至っては嘉永6年(1853)にほぼ成立しながら、世に出るのは昭和8年にまで待たなければならない。

 いささか前置きが長くなってしまった。歴史に興味を抱く地元の人なら、これに引きつけられぬ者はまずあるまい。見ていて楽しいだけではなく、郷土史料としても第一級のものと言える。

 この『尾張名所図会』は後に活字本でも幾度か出されている。が、いかんせん難しい用語が多く、年号一つをとってみても、西暦に置き換えないことには把握しずらい。一般の人には活字本ですら、いまでは近付き難いものがあった。

 出版を始めて6年目、これをだれにでも読める現代語に訳すことを思い立った。挿絵はそのまま生かし、現在の写真も豊富に取り入れ、移転した寺社などがあれば追跡調査し、さらに町並みなども分かるようにと航空写真まで入れた。これなら中高生でも読めそうだし、郷土の歴史に関心を持つ人が一人でも増えてくれれば、小社にとってもありがたい読者予備軍となる。

 難解な用語は辞書と首っ引きで分かりやすい言葉に置き換え、原文に忠実であるよりも、むしろ読みやすい“超訳”にした。活字本は原本(和本)と比べると、かなりの読み違いもある。それどころか原本にも明らかな間違いと思える個所までいくつか見つかった。

 いま思うと、あのときはやる気にあふれていた。よくもあれだけの時間と経費をかけられたものだ。当時は一般の出版社の本に負けないようなものを作るのが当たり前と思っており、ハードカバーや分厚いものも必死になって作っていた。

 意気込んだ『現代語訳尾張名所図会』の第一巻は城下編でもあることから、巻頭に蓬左文庫にあった「名古屋城下図」をカラー40ぺージで入れた。B5判・260ページの上製本で箱入り、3000部刷って定価は6500円。これを売って軍資金をひねり出し、次巻以降の刊行につなげてゆく計画である。

 付録の口絵に助けられるとは……

 これだけ分厚い本を3000部とはすごい量だ。製本屋から搬入されたら、一部屋がまたたくまに占拠されてしまった。書店に配本し終えてもちっとも減らないし(当時は直販を主にしていた)、広告を出しても思うように売れてゆかない。

 もちろん、訪問販売にも力を入れていた。お得意さんなどに持ってゆくと「面白い企画」とは誉められても、なかなか販売につながらないことに気付かされた。そうした人たちはすでにベテランの域に達しており、従来の活字本で十分に理解できていたようだ。

 それではと初心者と思われる人などを訪ねると、今度は6500円という値段や豪華本仕立てがネックとなった。中にははっきりと「せめてこの半額くらいなら、思い切って買うのだが」と言う人もいた。確かに買う身になれば、手ごろな価格とは言い難かったかもしれない。

 この本の印刷・製本にかかわる直接経費は何とか2000円以下に納まっている。原稿料も自分で書いたわけだから、カットできないわけではない。が、取材費や航空写真代、広告代、そして流通経費などを考えると、6500円でも決して高くはない価格だった。

 郷土史に関心の深いベテランからは「ここまでかみ砕いて書く必要があるのか」「これでは原文として引用できない」などと言われ、初心者の方からは「高すぎる」「自分で買うほどのものでもない」などと逃げられた。置いてもらえた書店はそれほど多くもなかったが、本は書店の店頭でも同じジレンマに陥っていた。ある店長さんからは「みんな手を取るので黒くなるほどだが、なかなかレジまでは持ってきてくれない」と同情されてしまった。

 そして2年後。ついに決断せざるを得なくなった。売れたのはたったの500部にも満たなかった。在庫を抱えて我慢していたところで、自分が死んでも本だけは残りそうな気がして、残り全部を廃棄することに決めた。

 それを思い切らせてくれた動機の一つは、巻頭の「名古屋城下図」が高い評価を得ていたこと。幸い、糸かがりでしっかり作っておいたのがよかった。この城下図部分を抜き取り、表紙をつけて3000円で売り出す作戦に出た。

 すると皮肉にもこれがよく売れ、印刷製本代くらいは何とかカバーすることができた。しかし、『尾張名所図会』に意気込んだ当初のもくろみはどこへやら、この企画はまさに「一巻の終わり」となってしまった。いまも買ってもらったお客様に出会うと、穴がないなら掘ってでも入りたいような心境になってくる。

 いまになって思うことは、あの決断はわれながら大正解だった、ということ。意地や面子で続行していたら、廃業に追い込まれていたかもしれない。一人出版社にとってはまさに絶体絶命のピンチだった。

 思えば高い授業料についた。これに似たような失敗は過去にも犯してきた。が、今回の大失態でいくつかのことを教えられた。

 その第一は、だれにでも読まれるようなものはだれからも読まれない、ということ。中高生にでも理解できるようにしたのに、多くの人から見向きもされなかった。読者は不特定多数をねらうのではなく、特定少数に絞って考えるべきだ。

 そのためには第二として、一般書ではなく専門書を目指すことだ。多くの読者を見込んでテーマを広くしたりすると、中味はどうしても散漫になりがち。それよりも狭いジャンルでいいから、深く掘り下げた方がよい。

 第三は少部数に徹すること。なくなれば増刷すればよい。本は中味が肝心であって、壮丁や造本も無理して立派にする必要はない。

 そして第四は大きな、長期にわたる企画はやらないこと。他社に物真似で対抗するのではなく、他社ではできない分野を探し出すべきだ。わずかの隙間をみつけたり、落ち穂拾いに徹する心構えが大切だ。

 販売力のある大手出版社や名前で売れる著者なら、こうした逆の方法も有効かもしれない。しかし、零細出版社であればあるほど、特定少数を対象にテーマや地域などを絞り、しかも中味の濃い専門書にしてゆくことだ。本自体に力を持たせておけば、たとえ時間はかかったとしても、おのずと売れてゆく。

 不幸にして現代語訳は失敗に終わってしまったが、7年ほど前に『尾張名所図会』と『小治田真清水』の原本を復刻、これをテキストに「原文で読む会」を立ち上げた。その成果は『のーと尾張名所図会』として刊行中であり、あと少しで全13巻が完結する。

 失敗から出版の仕方を教えられ、そしてまた得るものも多かった。