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■讃えよう 名古屋の明治

も・く・じ

  • 第一章 内乱と無縁だった幕末・維新の尾張
  • 第二章 東西の中間、大県・愛知の誕生
  • 第三章 在野に人材豊富、名古屋の地
  • 第四章 「富国強兵」下での教育・文化
  • 第五章 陸海軍聯合大演習と濃尾大地震
  • 第六章 日清戦争とその後の名古屋
  • 第七章 進む、近代化への基盤づくり
  • 第八章 発展途上、明治三十年代の名古屋
  • 第九章 日露戦争、開戦から終戦へ
  • 第十章 飛躍、名古屋港・上下水道・学校
  • 第十一章 光りと影、明治の終わりへ

 

讃えよう 名古屋の明治 「はじめに」より

 幕末の尾張藩の歴史に続いて、明治から昭和初期の二・二六事件に至るまでの尾張の歴史をまとめてみたいと考えた。その動機は曾祖父佐藤作平が武功を焦る公家と官軍の攻撃を受けて消息を絶ったこと、母子家庭の遺児となった幼い祖父鐘作は名古屋の商家に丁稚奉公をして、苦労の末に帽子問屋を営んだことなどが底流にあった。

 さて、84歳の筆者は名古屋での居住歴が約66年になるが、幕末から昭和初期にかけての尾張と名古屋の歴史にはこの間、ほとんど見るべきものがないとする見方が有力であった。尾張藩主慶勝(よしかつ)公以下は腰抜けの見本で、保身のために罪もない藩士たちを斬ったとする見方が、郷土史という狭い視野の中で強烈となり、次いで名古屋と尾張の出身者で中央政府で活躍した人士がほとんどいないとか。

 また、昭和初期に陸軍三長官の中で陸軍の綱紀粛正を目指し、独りで部内皇道派の領袖を抑えにかかり、二・二六事件のクーデターで殺害された渡辺錠太郎大将の勇気について、ほとんど着目する史家がいないことにも驚いた。国全体の中で尾張と名古屋は随分と軽視されてきたという思いがした。以下、執筆の動機について、筆者の立場を紹介してご理解を得たい

 筆者の母方の曾祖父は江戸幕府の用人組に属し、禄高200石程度の小禄ながら、職務柄、裃を着けて御広敷に勤めた。今で言えば内閣官房の事務官のようなもので、登城する諸大名や有司の応接から気苦労の多い職場だった。いつも裃を着けてというのは堅苦しいものであったが、幕末になると黒船騒ぎに始まり、平時のような繁文縟礼(はんぶんじょくれい)が廃止された。季節ごとの恒例の贈答儀礼なども大幅に廃止された。御広敷の用人組の仕事も大きく削減された。

 俗に旗本8万騎と言われるが幕末は2万数千名で、大番組等の戦闘員の士官は少なく、大方は江戸と地方の役人であった。非常時というので幕府は歩兵隊を新たに編成したほか、外国公使館が江戸に開設されたため、その護衛隊を外国奉行の下に編成するなど、軍備増強に大忙しの時節になった。用人組でお城勤めをしていた多くの面々は、士官不足で困っていた新設の組織にコンバートされた。

 曾祖父は出役の時には馬に乗れたらしく、支配老中から外国奉行附に出向を命じられた。ある夜、外国公使館員の警護中に攘夷の志士たちの襲撃を受けた際、馬が斬られて暴走。護衛役の士官は暴走する馬にしがみつき現場を離れ、その間に外国公使館員が斬られるという事件が起きた。馬はかなりの距離を暴走、乗り手の士官は落馬しないように懸命となり、護衛の役目どころでなかったようである。これは醜態と目された。

 この事件のあと曾祖父は病となり、小普請入りを願い出たが、支配老中から歩兵隊訓練隊(撒兵・さっぺい)に出向を命じられた。平時なら隠居の齢だった曾祖父は鉄砲の射撃訓練やフランス陸軍式の歩兵隊調練に参加することになった。攘夷過激派の襲撃には無事だったが、この撒兵への出向は曾祖父の命取りになった

 曾祖父は長州征討や鳥羽・伏見の戦いに派遣されることもなく、戊辰戦争の時は江戸にいたが、江戸城明け渡しの時、歩兵隊の一部が集団で上総木更津辺に脱走。その鎮撫のため歩兵頭とともに派遣された。

 武士ではなく庶民から徴募した歩兵隊は、上野の彰義隊のような集団ではなく、官軍に徹底抗戦する意志もない不満分子の集団であった。上司の歩兵頭が優柔不断のため脱走隊員はつけあがり、恭順の呼びかけを無視して官軍の一方的な攻撃にあい壊滅した。上司の歩兵頭は説得に身が入らず、何事もなく生還している。

 『千葉県史』によれば戦闘のきっかけとか、何処で誰を何人殺したかの記録もなく、正体不明で奇っ怪な戦闘だと評している。死亡した曾祖父の墓はなく、何処で死んだのかも不明であった。曾祖父の履歴の終わりは空白で、死亡の場所も理由も記載がなく、徳川宗家が駿河に転封となった時、未亡人の曾祖母は幼い祖父と四谷の用人組屋敷から立ち退きを命じられ、駿河の富士山麓の村庄屋の厄介になった。

 その後、幼「祖父は教育を受けるどころでなく、生活のため名古屋の商家に丁稚奉公することになった。この間、村庄屋の娘は自家用の駕籠の送り迎えで隣町の小学校に通っていたが、庄屋は連帯保証債務で破産。暖簾分けで円頓寺(名古屋市西区)に店を構えた祖父は、破産した庄屋の娘だった祖母と結婚する。

 小さな店のおかみさんになった祖母は店の商売も手伝い、子供を背負って掛け取りに歩くなど苦労が多かったという。その後、祖父は鉄砲町(名古屋市中区)に帽子問屋を営むまでになり、初荷の写真には祖父、祖母と多くの従業員にまじり筆者の母の少女時代があった。母は岡谷さん(笹屋、現在の岡谷鋼機)の隣に店を持てたことが、商家として大変誇らしいことだと祖父を自慢していた。

 昔は藪入りで帰省する丁稚までハイカラな帽子をという時代だったから、祖父の帽子問屋は繁盛していたが、跡を継ぐ男子がなく番頭に任せて早々と引退した。祖父は家族と名古屋を去り、東京深川に転居。江戸下町の風情が残る町で楽しい隠居生活を数年。その後は祖母の郷里に移り、祖母を労って隠居生活を送った。筆者が知る祖父は3歳からわずか3年間のことで、遊んでくれた祖父の思い出は懐かしくいとおしい。

 母は娘時代の名古屋での暮らしが懐かしかったらしく、戦後の貧乏暮らしの中で再び名古屋に転居した。折しも学資と健康の不如意から医学部を中退した筆者は愛知県庁に就職、名古屋に落ち着いた。父母が他界したのちも筆者は名古屋に住み続けている。横浜生まれの筆者は父親の転勤に加え、戦時と戦後の住宅事情のため、小学生のころから転校を重ねた。

 名古屋は住みよい町だった。ほぼ同年の義兄とは県庁時代に音楽とミュージカル映画を中心に、遅れた青春時代を満喫して親交を重ねた。県庁でものちの転職先でも再三東京への転勤を勧められたが、通勤に要する体力の不足に加え本省本社勤務というのがどうにも嫌で、その代わりに名古屋で精勤するからと拒み続けた。

 筆者にとって名古屋とは祖父と母親の代からの遠い因縁もあり、その親戚筋もいたため、最初から今日まで本当に過ごしやすい町だった。幼い頃の祖父が小さな身体であちこちと使い走りをしていたことを思い、半ばふるさとのように感じていた。いつか暇ができたら名古屋と尾張の歴史を調べてみたいと思っていた。

その最初の契機は、郷土史家の水谷盛光氏(中区長)から、幕末の尾張徳川家の内紛(青松葉事件)に関する論考の出版記念会に招かれたことに始まった。半世紀も前のことで、水谷氏とはある会議で同席したのがご縁であった。

 在職中は多忙で尾張藩の幕末史はお預けだったが、退職後はこれが契機となって幕末の尾張藩が果たした役割の大きさ、猟官運動などに無縁だった寡欲な関係者の潔さなどに気づいて感銘した。更にこの数年、郷土史に詳しい舟橋武志氏と知り合い、筆者の海軍戦史資料の出版から幕末の尾張藩史について、編集・出版までお引き受け願うことになった。

 この年来、筆者は前立腺癌を患い体力が年々衰える中で、元同僚の永井久隆氏と水谷博氏に筆者の作業を支援して頂いている。実に幸運なことと感謝に耐えない。本書が何とかまとまったのは、舟橋、永井の両氏のお力添えによるものである。

 筆者の若いころは、御一新以来の尾張では人材不足による不甲斐なさが何かにつけ議論され、東京ほかに対する文化コンプレックス論が強かった。筆者にはこの自虐的な見解は表面的すぎて、同調できなかった。

 当時の名古屋は官民ともに、中央からの天下り組が支店長や幹部になり、それを迎えて地元の取り巻きがゴルフや宴席に誘いまくる。短い任期を終えた支店長たちは置き土産に取り巻きを引き立てる。これでは名古屋がスポイルされると、大企業の人事部長が嘆いていたことがあった。地元大学の有能な教授たちにとっては、名古屋は東京への途中の腰掛けだとの批評やら、文化不毛論の次はそんな消極的な解説がしたり顔に幅をきかせた。

 こうした背景の中で、幕末の尾張藩は腰抜け揃いという史観に拍車がかかった。残念な偏った見方だと思った。最初の発刊から10年余、幕末も明治以降も今一度見直さなくては、としきりに思った。

 明治の尾張と名古屋は一口で言えば在野の隠れた人材の活躍によって、よその各地で頻発したような余計な騒ぎに足をとられることなく、市街電車、名古屋港の開発、上水道の木曽川からの導水、濃尾大震災を克服しての諸産業の振興、教育文化面の充実と、大方を国に求めることなく、自らの発意と負担で都市基盤の形成を実現している。これは誉め讃えられるべき偉業と言ってよく、郷党としては誇るべき父祖の歴史だと思う。

平成28年初夏  渡辺博史

 

 


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