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■歴史探訪・徳川宗春「名古屋城編」
宗春生母・宣揚院を追う
実家三浦家「系譜」に見る宣揚院とその一族

 これまで宗春の生母・宣揚院の実家はよく分かっていなかった。父親の三浦太次兵衛嘉重(よししげ)は元禄8年(1695)に召し出され、200石で成瀬隼人正の同心になったが、それ以前の状況はまったく不明だった。また、嘉重がどういう理由で尾張藩に採用され、そのうえ、娘が三代藩主となる綱誠(つななり)と結ばれたのかも謎に包まれてきた。

 ところが、三浦家の菩提寺、名古屋市東区泉2丁目の養念寺からたどってゆくと、幸いにも同家のご子孫にお会いすることができた。同寺の話では、三浦家は大正2年に八代嘉利に男子がなく断絶したが、娘さんがいまもご健在であるとのこと。いまから20年近くも前にお会いしている。

 これを教えて下さったのは古文書の勉強会で世話になっていた鬼頭勝之先生である。先生には『宗春と芸能』(小社刊)という著書があり、系譜はそこにも収録されている。また、宗春の菩提寺とされた養念寺には宗春の遺品をはじめとして各藩主ゆかりのものも残され、“宗春寺”と言ってもいいほど尾張藩とゆかりの深い寺である。

 宣揚院の実家を語れる唯一の生き証人、嘉利の娘さんは北区の平尾家に嫁がれた平尾さださん。同家を訪ねたのはちょうど80歳になられたときで、その後、数回お会いしたり賀状の交換をし、最後になったのはお亡くなりになる直前、92歳のときだった。断絶した三浦家の遺品をさださんが引き継いでおられ、これまで分からなかったことも次第に明らかになってきた。

 遺品の一つが三浦家の「系譜」である。七代三浦太次兵衛が慶応3年(1867)に書き写したもので、尾張藩に仕えた嘉重の二代前から書き起こされている。この系譜をもとに、さださんの話も取り入れながら、宣揚院と宗春、三浦家との関係を明らかにしていきたい。




もっと大きい画像は系譜(上の画像)をクリックしてください。

 

戦力外通告!? 浪人の身だった宣揚院の実父・三浦嘉重

 これまで仕官する以前の三浦家の状況は分かっていなかった。しかし、これによると先祖は茂兵衛と言い、岡崎の本多豊後守に賄役(まかないやく)として仕えていたことが知れる。跡を継いだ太郎兵衛も岡崎城主本多伊勢守に普請奉行として仕えていた。

 ところが、次の宣揚院の父に当たる太次兵衛嘉重は唐突に「遠州横須賀ニ住居仕(つかまつる)」とある。系譜ではこの人を「高祖」とし、同家の初代としている。その嘉重は元禄8年(1695)になって成瀬隼人正に召し抱えられ、知行200石を給わった。

 岡崎藩主について調べてみると、初代の本多豊後守康重(在位・慶長6年〜同10年)、二代伊勢守康紀(同16年〜元和9年)、三代伊勢守忠利(同9年〜正保2年)、四代越前守利長(同2年から天和2年)と続いている。茂兵衛の仕えたのが初代のときで、その後を継いだ太郎兵衛は二代ないし三代の伊勢守に仕え、太次兵衛嘉重のときに岡崎を離れ、遠州の横須賀へ移っている。

 これは藩主の利長が岡崎藩から横須賀藩へ転封になったからだ。嘉重はそれに伴って横須賀へ行った。ところが、元禄5年(1692)、利長は悪政を批判されて出羽村山(山形県村山市)へ左遷されることになった。

 従来、嘉重を太郎兵衛とする本も多かった。読み違えたのかと思っていたが、その前が実際に太郎兵衛を称していたのだ。こんな名前すらも混乱があった。

 当時、岡崎と横須賀は同じ5万石で、しかも譜代大名の家柄。しかし、出羽は1万石でしかない。召し抱える藩士にリストラが行われ、おそらく嘉重もこのときに解雇されたのだろう。

 浪人の身となった嘉重は故郷でもあった江戸へ出た。出羽転封に伴って失録したとなると、この系譜にある尾張藩に仕えた元禄8年までの間、約3年にわたってぶらぶらしていたことになる。嘉重は新たな仕官先を求め、何かと気を遣っていたにちがいない。

 この嘉重には伝左衛門、宗円、女子の3人の弟妹がいた。伝左衛門は遠州気賀(浜松市北区細江町)の領主・近藤縫殿助(ぬいのすけ)に仕官、宗円は「甲府様」家宣に仕えたが、やがてその家宣は五代将軍綱吉の跡を受けて六代将軍に就任する。それまで宗門改役をしていた宗円も、これに伴い「公儀御広間方相勤」とあるように幕臣になっている。

 子供に恵まれなかった将軍綱吉は紀州の三代藩主綱教(つなのり)を後継将軍にと考えていた。この正室に鶴姫を嫁がせ、紀州びいきである。しかし、綱教があっけなく死んでしまった。

 一方のうとんじられてきた家宣は尾張びいきで、尾張三代藩主綱誠とは親交も深い。甲府は将軍の一族が入り、将軍などを出す重要なポストである。綱吉はしぶしぶその家宣に将軍の座を譲るのだった。

 余談になるが、岡崎の大樹寺には歴代将軍の等身大の木像が安置されている。綱吉のそれは120センチちょっとと極端に小さく、見る人の首を傾げさせている。以前、同寺を訪れたとき、若い女性グループが「まあ、ちんちくりん! こんなに小さかったの?」と驚きの声を上げていたが、筆者は将軍の座を快く譲ろうとしなかった綱吉への、家宣による“報復”ではなかったかと密かに思っている。

 「高祖」とされた初代嘉重には妹が一人いた。彼女は近藤一郎右衛門という人に嫁いでいる。彼は「竹中監物殿小姓役」とあるが、兄の伝左衛門の仕官先が同じく近藤である。両者は何らかの縁があったのだろうか。

 その嘉重には三男二女の子供がいた。宗春を生むことになる宣揚院、太次兵衛嘉貞、女子、嘉豊、景包(かげかね)がそれ。この系譜で注目されるのはわざわざ長女の名前を「宣揚院様」と明記しながらも、まったく経歴などを記していないことだ。

 このことから推察すると、宗春は蟄居謹慎させられた藩主であり、生母の実家である三浦家も肩身の狭い思いで生きてきたのではないか。これまでこの系譜をはじめ三浦家の史料が世に出なかったのも、そうした背景があってしまい込まれていたのだろう。

 菩提寺の養念寺でも宣揚院が正しく語り継がれてこなかった。先代十四世ご住職・冨永伸(のぶる)さんは「つい最近まで宣揚院様を誤って別の家の方だとばかりに思っていました」「嘉利さん(八代)と六代目の奥様がともに市江家から来ておられ、宣揚院様はそちらの出だと聞かされてきました」と語っておられた。知られずに来た宗春生母の宣揚院の実家・三浦家の苦しい立場が分かるようでもある。

 ところで、問題となるのは「高祖」嘉重が元禄8年に成瀬隼人正に200石で仕えた経緯である。さださんに尋ねたが「それについては聞いたこともない」と言われた。そして、こんなことを――。

 「何でも300石を下さるとのことだったそうですが、先祖は断ったと聞かされてきました。300石をもらう身分になると、馬に乗らなくてはならなかったそうですわなも。乗れなかったのか、乗りたくなかったのか、あっはは」

 同家には知行宛行状(あてがいじょう)も残されていた。200石は村中村(小牧市)、田楽村(たらがむら、春日井市)、豊場村(豊山村)の3村からのもの。200石では決して多いとは言えないが、名もない一介の浪人には過分な石高でもある。

 

二男一女を生んだ宣揚院、“強健”宗春も母親譲り

 調べを進めていくうち、宣揚院は宗春の前に城次郎という男子を生んでいた。早世しているが、元禄7年の誕生。ということは、父が見込まれて取り立てられたのではなく、娘が綱誠の子・城次郎を出産して側室となり、その功により仕官できたことになる。

 江戸時代は厳しい身分制度の社会である。河村瑞軒のように大事業を成し遂げて武士に取り立てられるケースはままあったが、無名の庶民がこれを“突破”するのは娘が若殿なり殿様に見初められることだった。子供ができてお世継ぎにでもなれば、生母は大奥で実権を握り、一族もまた出世にあやかれる。

 このような幸運はなかなかあるものでもないが、それでも現実には結構あった。よく知られている二代藩主光友の生母は大森村(守山区)の農家の娘だったが義直に見初められ、父親は藩士に取り立てられている。良家の血筋を引く正室にはなかなか子供が生まれず、多くの藩主はこうした外部の側室から生まれている。

 宗春は正室を持たなかった。花魁(おいらん)の春日野を側室の一人とし、その父親も農民から尾張藩士になっている。浪人の娘だった宣揚院はどこで、どうやって綱誠に見初められたのだろうか。

 ヒントはこの系譜の中にある。嘉重の弟・宗円が将軍家宣に仕え、江戸の甲府屋敷にいた。家宣は当代一流の文化人で、芝の増上寺近くにある甲府屋敷でサロンを開き、新井白石もこの席で講義することもあった。尾張びいきの家宣のことであり、おそらく綱誠もメンバーの一人としてこの席にいたのではないか。

 うら若い宣揚院は叔父である宗円のつてで接待役として仕え、そこに居合わせた綱誠と出会ったものと推測される。そして、城次郎を生み、女子を身ごもり(早世)、後に宗春を生むことになった。ちなみに、宣揚院の父・嘉重が召し抱えられた元禄8年は綱誠が藩主になって2年目、42歳のとき。宣揚院は23歳だった。

 宗春は元禄9年に生まれている。父親である綱誠にとっては20番目の男子で、四代藩主吉通、六代藩主継友は異母兄に当たる。この宗春が後に梁川(福島県伊達市)の藩主となり、享保15年(1730)には継友の死によって思いがけなくも尾張藩主になるのだった。

 城次郎の誕生で宣揚院は御家再興を夢見たことであろうが、その死で消え去った夢が宗春の誕生で再び灯(とも)った。しかし、20男にその座が回ってくるほど、生き延びるのが大変な時代だった。いまは当たり前のように祝っている節句や七五三が当時の人たちにとってはいかにうれしいものだったかがしのばれる。

 綱誠は38人の子沢山だった。その大半が初めて迎える誕生日前までに亡くなっている。養子か部屋住みと思われていた宗春に梁川藩主の、さらには尾張藩主の座がめぐってきたのだから、宗春自身の喜びも格別だったにちがいない。

 

宗春の盛衰を見てきた三浦家の二代嘉貞、三代嘉泰

 正徳2年(1712)、17年勤めた嘉重が病死した。子の嘉貞がその跡を継ぎ、元禄9年、綱誠に御目見得、同12年に二之丸詰、同17年には御側寄合になった。弟の嘉豊は元禄13年、5歳になった宗春の小姓としてその行方を見守ることになっている。

 しかし、現実は宣揚院の描くようにはうまく行かなかった。父嘉重は仕官するのに際して300石を自ら200石に願い出たように、上昇志向の人ではなかったようである。これには娘のおかげで仕官できたとの負い目や周囲の冷たい目もあったからなのかもしれない。

 “御畳奉行”朝日文左衛門の『鸚鵡篭中記(おうむろうちゅうき)』は享保2年(1717)6月8日の出来事として次のように書いている。「三浦太次兵衛、若党を手討ちにす」。三浦家の跡を継いだ5年後、二代目は人のうわさを家人までがするようになり、それに耐えかねて斬り殺してしまった。

 しかし、文左衛門はたったこれだけしか書き留めていない。この種の出来事は当時、日常茶飯事だったし、もちろん、これによって太次兵衛嘉貞が罪に問われることもなかった。初代はどんな悪評にも耐えてきたと思われるのに、二代目はそれだけの器量を持ち合わせていなかったようだ。

 この嘉貞は宗春の登場と失脚を目の当たりにしてきた人でもある。御側寄合になった享保17年という年は宗春が『温知政要』を印刷・配布する一方、西小路に遊廓を開設、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)を招いて芝居を興行し、参勤交代で江戸へ下ってからは藩邸内で嫡男万五郎の初節句を盛大に祝うなど、型破りの政策が本格化し出したときでもある。このとき宗春37歳、宣揚院60歳。

 これを見つめる宣揚院の胸の内は複雑だったにちがいない。わが子が念願の藩主になったものの、過激な政策にハラハラドキドキだったのではないか。それは御家再興の夢が遠のいていくようでもあった。

 不幸はまだ続く。元文2年(1736)実家の三浦家では迎え入れた養子の嘉傍(よしかた、宣揚院の末弟)が若くして死に、その2年後の正月、心配していた宗春が将軍吉宗から蟄居謹慎を命じられた。そしてこの年の10月、江戸の麹町屋敷に閉じ込められていた宗春は名古屋に護送され、母のいた名古屋城三之丸の屋敷に幽閉されることになり、宣揚院は先に泉光院(継友の生母、元文3年没)のいた南側の館へと移動するのだった。こうして母子は道一つ隔てたところに住みながら、おたがいに会うこともできない境遇に置かれることになった。

 江戸で万五郎の初節句を祝った享保17年、吉宗は密使滝川播磨守と石河庄九郎を遣わし、さる5月5日の行為などをとがめた。何しろ「享保の改革」の推し進められているお膝元での大胆な出来事だった。これはいわゆる「三カ条のおとがめ」と言われているものだ。

 このとき、宗春は謝罪しながらも逆に自分の意見を述べ、さらには幕政の批判までしている。使者の報告に吉宗は堪え、何の反応も見せなかった。次々と打ち出す宗春の政策が面白いようにうまく行っていたときだった。

 しかし、いまは立場が逆転している。謹慎を命じたものの、それでも腹の虫が治まらなかったのか、吉宗は使者加納大隅守を名古屋に遣わし、三之丸の宗春に七カ条にわたって詰問させている。このときのやり取りは「尾公口授」として書き残されているが、これは「七カ条のおとがめ」とも言うべきものだ。このとき、とらわれの身である宗春はひたすら平伏するばかりであった。

 跡継ぎを失った三浦家では三代目として平十郎嘉泰が迎え入れられた。これは六代将軍家宣に仕えた三浦宗円の子。元文5年、宗春の後を継いだ八代藩主宗勝に御目見得、寛保元年(1741)御書院番となり、宝暦6年(1756)養父嘉貞が亡くなり、知行200石を受け継ぎ、明和3年(1776)には50石を加増されている。

 この人は名古屋で始まった長い蟄居中の宗春とともに生きた人だ。寛保2年、わが子の行く末を心配する宣揚院は嘉泰を代参に立て、荒子観音に宗春の武運長久を祈らせた。またこの年、彼女は八事の興正寺にも「浄土変相図」を寄進したり、土砂加持を依頼して宗春の滅罪を願っている。

 翌3年、その宣揚院が71歳で亡くなった。宗春はすぐ近くにいながら死に目にもあえず、葬儀に参列することも許されなかった。その後、養念寺に豪華な仏壇が寄進されているが、これは宗春が人を遣わして密かに贈ったものと思われる。

 「それはそれは大きな、ピカピカのものでした。三浦家の法事のときにしか開帳されませんでした。残念ながら先の戦争で焼けてしまいました。境内にあった先祖の墓も、四畳半ほどもある立派なものでしたよ」

 生前、平尾さださんはこう語っておられた。同寺にはそれをしのばせるような「御位牌殿用」の内敷が残されている。その平尾家も養念寺を菩提寺としている。

 宗春は蟄居生活に耐えながら明和元年(1764)まで生き延びた。44歳のときに蟄居謹慎を命じられ、69歳になるまでの25年間にもわたる窮屈な暮らしだった。藩主時代があまりにも華やかなものだっただけにわびしくもあるが、そうした環境に置かれながらも耐え抜いた生命力は母親譲りのものだったのかもしれない。

 蟄居後の宗春とともに生きた三浦家三代の嘉泰は享和2年(1802)に病死する。宗勝の世は宗春政治の反動から厳しい倹約の治世となったが、バトンはその子宗睦(むねちか)に渡され、さらに“天下り藩主”十代斉朝(なりとも)の時代へと移っていた。

 

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