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■裏から読む大坂の陣
  ―善光寺・豊国社・お江与・甚目寺

 著者の鬼頭先生にはもう20年近くにわたって、当店の主宰する古文書の勉強会の講師をしていただいている。前著『女たちの徳川』に続き、本書も古文書に強い先生ならではの労作。実践的な猟師が駆り出されていたり、善光寺が甚目寺にも移されていたなど、古文書解読の成果で新しい指摘が随所に秘められている。本書を編集しながら、ブログに書いたいくつかの話題を――。(店主・舟橋武志の「マイタウン通信」より、2011)

 

ブログにみる編集者、店主の編集日記

●7月5日 私も島流しにされるの?

 いま古文書を教えてもらっている鬼頭勝之先生の『裏から読む大坂の陣―善光寺・豊国社・お江与・甚目寺』という本を編集中だ。前著『女たちの徳川』の姉妹編になる。歴史は英雄たちを中心に語られてきたが、その英雄も敗者からの復讐・怨霊を恐れ、みずからは来世での平穏を願って霊能力を持つ女性たちにすがっていたという、精神面から考察したユニークな著作である。

 同書の中に名古屋の堀川・伝馬橋の東で、ブタが飼われていた話が出てくる。当時、ブタはめずらしくて見世物にもなったそうだが、大坂の陣で家康が尾張藩士を通じて、熱田にもいたブタを送るように求めてくる。大砲を操作する傭兵の外人部隊に、肉が必要とされたからだ。外国人の往来する熱田の宿にはブタが飼われていたのだろう。

 関ヶ原の合戦で大砲が登場し、大坂の陣ではこれが威力を発揮した。この操作・指導に当たったのがそうした外国人たちだ。幕末になるとアメリカなどが開国を求めてきた理由の一つに、船乗りたちの食事に必要なブタやウシ、トリなど食肉の確保という面もあった。

 ブタは子をよく産む。しかし、当時の日本人に動物の肉を食べる習慣はなかった。伝馬橋東にいたブタは増えすぎて処理に困り、当時、尾張藩の流刑地だった知多の篠島へ“島流し”にされている。

 鬼頭先生の本は今回もいまでは顧みられない怨霊思想を中心にした戦国から近世初頭にかけての“裏から読む”硬派の論集である。こんな話はエピソードとして取り上げられているに過ぎないが、これを面白おかしくお客さんに話していたら、居合わせて別の人から、「そうなると私も島流しですかねえ」と言われてしまった。いやいや、決してそんなつもりで言っていたのでは……。

●7月6日 えっ、そんなことが!甚目寺の謎

 昨日の話に続いて――。そのお客さんから「鬼頭さんの本はすごい」と言われていた。以前に前著『女たちの徳川』を買っていただいている。

 これは日本の三大尼上人と言われた伊勢上人・熱田上人・善光寺上人などを取り上げたものだ。彼女らが時の権力者にどうして庇護・尊敬されていったかを明らかにした。古文書に強い先生がこれによって新境地を拓かれた一冊と言ってもよい。

 それから一例をあげれば、“熱田さん”の名で名古屋市民に親しまれている熱田神宮――。戦国から近世にかけて神宮の西、旧旗屋町一帯は巫女(みこ)や比丘尼、山伏などの住むおどろおどろしいところだった。当時は神仏習合で、神も仏もいっしょくただ。

 この中で頭角を現してきたのが源頼朝誕生地に誓願寺を開いた善光尼“熱田上人”である。その優れた霊能力によって、時の権力者やその身内などの崇敬を集めていた。また、江戸後期になると、きの女により如来教が創始されるが、彼女もまたそうした一人だったのである。

 今度出す『裏から読む大坂の陣』では甚目寺も同様な状態だったことが明らかにされてゆく。この寺も長野の善光寺と縁が深く、一時、本尊がここへ移されていたこともある。詳しくは近く出す同書に譲るが、ここでもまた鬼頭さんならではの独特の史観が展開されてゆく。

 「木を見て森を見ず」と言うように、英雄の挙動ばかりに目が行き、その心中までを見ようとはしなかった。明日の命も分からない中を生きた彼らがどんな心境で日々を過ごし、そして、来世の平穏を願っていたのか。この本もまた、なかなかうかがい知ることのできないところへ切り込んだ、鬼頭さんならではの労作である。

●7月8日 甚目寺観音の謎「おそそ様」

 名古屋市博物館で7月16日から特別展「甚目寺観音展」が始まる。この甚目寺も巫女(みこ)や比丘尼の集住するところだったことを『裏から読む大坂の陣』は明らかにしている。その拠点の一つとされたのが本堂の東にある釈迦堂(釈迦院)だ。

 同寺を参拝する人は本堂や山門、三重塔などに目を奪われ、この小堂については目もくれない人がほとんど。いまは忘れられたような存在と言えるが、かつてこの周辺にいる彼女らはまるで生き仏のように崇められ、人々はその託宣をありがたく頂戴したものだ。ここには寺宝類も多く残され、今度の展覧会にも出品される。

 お堂の小窓から中をのぞくと、顔に白粉(おしろい)をしたなまめかしい女性が祭られている。いまもって正体は不明であるが、知る人からは「おそそ様」と呼ばれている。巫女や比丘尼などと関係する珍しい像である。

 一宮の真清田神社でも熱田神宮や甚目寺同様、巫女や比丘尼らが活動していた。その拠点とされたのが境内にあった般若院だ。鬼頭さんは本の中で熱田神宮・甚目寺観音・真清田神社などのこうした知られざる一面をあぶり出し、その解明に意欲的に挑戦されている。

 信濃の善光寺が一時期、甚目寺に移されている。この辺の話も同書のハイライトの一つで、“目からウロコ”のような話が展開されてゆく。博物館の催し物とともに、鬼頭さんの新著にもご期待下さい。

●7月14日 やっぱり落ちたか……

 当店はクロネコヤマトの人の世話になっているが、このところお疲れのご様子である。「暑いわ、忙しいわで、ワヤでしょ」と言ったら、「いまは少しでも寝たいですよ」。毎日、帰るのが夜の10時、11時だそうな。

 暑いのに加えて、中元のシーズン。「タフマンでも飲んで、頑張ってちょー」と激励したが、今日に限って出した荷物は重かった。肩に担ぎ上げたものの、後ろ姿はふらついているように見えた。

 今月16日から名古屋博物館で「甚目寺観音展」が始まる。その一角に本などを売るコーナーができ、地元出版社の本も並べられるとか。『津島上街道』や『名古屋いまむかし』など6点、各10冊ずつを出すことにしたが、今日の荷物がそれだった。

 甚目寺観音は仏教伝来後、60年ほどして建てられている。法隆寺や四天王寺などに次ぐ、古さではわが国でも指折りの古刹だ。江戸時代、津島上街道が旅人たちの人気を集めたのも、途中に甚目寺観音があったことも大きい。

 やっぱり気になったのは塔頭の一つ、釈迦院の“おそそ様”だったのだろうか。周辺には巫女や比丘尼が住んでいて、供養や占いなどをしてくれる。女性のアソコを名古屋弁で“おそそ”とも言うが、分かるような分からないような気がしないでもない。

 それにしても『裏から読む大坂の陣』がこれに間に合わなかったのは残念無念! 編集を急がねば。本はA5判・240頁・税込み2625円(300部制作)。

●7月30日 甚目寺展に行ってきました

 名古屋市博物館で開催中の「甚目寺観音展」へ行ってきた。予想していたよりも多くの人出だった。普段では博物館へ来ないと思われるような人たちもいて、庶民に支えられてきた宗教の底力を教えられた感じだ。

 甚目寺はわが国でも有数の古刹である。片田舎にこんな大寺が守られ続けてきたことだけでも注目に値する。いつもは見られない寺宝類がたくさん展示され、なかなか充実した内容だった。

 今回の目玉は何と言っても仁王像2体が直近で見られること。もとの南大門に納められたら、このような形では二度と見られない。きれいになったお姿とその巨大さに目を奪われてしまった。

 今回修復が成ったのも、ウワサであって真偽のほどは知らないが、どうも2000万円を寄付した奇特な人がいたからだそうな。しかも、匿名が条件だったらしい。これほどではないとしても、こうした信心深い人たちがいたからこそ、寺は守られ、そして古刹としていまにあるのだろう。

 展示会場の一角では本を6点ほど扱ってもらっている。一番気になったのはその売れ行きだったが、係りの女性にあいさつすると「まあまあ売れてます」とのことだった。できるものなら「まあまあ」から「どえりゃー」に発展していってほしいものだ。

●7月31日 福島正則と甚目寺観音

 昨日の話題、その2――。気になったもう一つは釈迦堂(塔頭・釈迦院の管理)の“おそそ様”についてである。内藤東圃の『張州雑志』を紹介し、「びんずる」様とされていた。さすがに東圃も鬼頭さんのような深読みはできなかったようだ。

 鬼頭さんは『裏から読む大坂の陣』の中で書かれておられるが、信濃の善光寺が一時期、甚目寺に移されていたということも、これまで語られてはこなかった。その善光寺は比丘尼たちが活躍する占いの霊場だった。甚目寺の“おそそ様”も釈迦院で占いをする比丘尼や巫女たちの象徴だったのである。

 甚目寺に参拝する人たちはご本尊以上に、釈迦院の“おそそ様”に関心があったのではないか。庶民は格式の高い寺社よりも、身近にある何でもないものをありがたがる傾向にあり、それがお地蔵さんであったり石神や山の神などであったりした。いまでは忘れられたような存在だが、甚目寺ではこの“おそそ様”が人気の的だったにちがいない。

 仁王像が解体されて清須城主だった福島正則の寄進であることが分かったが、正則はここ釈迦院の智慶尼の世話になっている。鬼頭さんは同書の中で国替えによって正則が尾張を去るとき、彼女を思いやって生駒氏や沢井氏に面倒を見てくれるように頼んだことも紹介されている。この智慶尼こそ善光寺上人となり、また真清田神社の般若院の巫女をも指揮した「甚目寺中興の祖」であったことなども明らかにされている。

●8月8日 今日8月8日は名古屋の日

 昨日の中日新聞サンデー版のコラム「この日何の日」。目からウロコが落ちた。この地方では名門、一宮高校がなぜ「ヤリ高」と言われているかの疑問が解けたからだ。

 「ヤリ、フリ、カチ、タメ……。駆け出しのサツ回り記者だった昔、ベテラン刑事が当直の夜に教えてくれた香具師(やし)の符丁。『ヤリはな、槍で1、フリは振り分け荷物で2、カチは家来2人を従えたお侍だから3……』。8はアツタだった(略)『熱田さんは名古屋、名古屋はまるはちじゃないか』」

 なるほど、「ヤリ高」は香具師の符丁から来ていたのだ。一宮西高校の生徒は名門にあやかって「ヤリ西」とも呼んでいる。その愛称が香具師やヤクザの言葉だったとは、ちょっと意外な組み合わせだった。

 記事には名古屋の市章、まるに八の由来についても書かれていた。「尾張徳川家の合印(あいじるし)で、末広がりのおめでたいマーク」。なぜ尾張藩がまるはちを使うようになったのかは鬼頭さんが『女たちの徳川』で明らかにされている。

 八は京都・石清水八幡の「八」というのだ。お亀の方(相応院)は父が石清水八幡の修験だった関係で御陣女郎として戦場にいたが、後に家康に見初められて側室となった。そこで生まれたのが藩祖となる義直であり、尾張藩の重役はお亀の方の子供や兄弟姉妹の関係で固められていく。鬼頭さんは尾張藩を“お亀帝国”と名付けられている。

 信楽焼のタヌキもまるに八のマークを入れたトックリを持っている。これはタヌキでも石清水八幡を信仰しているとの教えだと思うが、鬼頭さんは「はっきりした裏が取れない」と、これを認めるのにはいささか躊躇されている。名古屋ではこの日、88円とか888円とかで、いつもより安く売り出す店も多い。

●8月10日 戦場にいた“その他”の人たち

 「御陣女郎という言葉を初めて知りました。どういう人で、どういうことをしていたのでしょうか」

 ブログを読んでいるという人から、こんな趣旨のメールをもらった。確かに、なじみのない言葉なのかもしれない。鬼頭さんの前著『女たちの徳川』はこれが一つのテーマでもあった。

 戦場には多くの男たちに交じって女性もいた。食事の支度や性的な“お仕事”だけではなく、首実検のために化粧をしたりする人も必要となる。また、戦死者を慰霊する巫女や比丘尼、さらには占いや予言までする女軍師のような人までもいたりした。

 後世、女郎(遊女)はクシを多く刺して頭を飾るようになった。これは死に化粧をする彼女たちがそれ用のクシと自分用のクシとを持っていた名残というのが鬼頭さんの見解である。合戦となると男ばかりに目が行きがちだが、その陰にはこうした女性たちもいたのだ。

 『女たちの徳川』には“戦果”の首が多く並べられ、その前で化粧に励む女性たちの絵が掲載されている(「おあん物語」より)。それらは首実検が済めば、ねんごろに葬られた。戦場には敵味方の区別なく戦死者を供養するための僧侶もおり、彼らは“陣僧”と呼ばれていた。

●9月7日 江南市小折の大仏様に注目!

 市博の「甚目寺展」は好評のうちに終わったようだ。宗教がからむと強い。県外から訪れた人も多かったとかで、わざわざ甚目寺まで足を延ばした人も結構いたらしい。

 その甚目寺の釈迦院が占いなどをする尼僧の溜まり場だった。一宮の真清田神社では境内にあった般若院がその舞台となった。先ごろ出した鬼頭勝之さんの著『裏から読む大坂の陣』が明らかにしている。

 釈迦院は生き延びていまもあり、般若院は神仏分離で消えてしまった。いまごろになってハッと気付かされたが、かつて『武功夜話のふるさと』で紹介した江南市小折の“大仏”阿弥陀如来座像は般若院の本尊ではなかったか。場違いとも言えるほど立派なもので、愛知県の文化財に指定されている。

 地元の人の話では、真清田神社にあった西神宮寺のご本尊だった、とのこと。その西神宮寺とは般若院の別称だったのだろう。これはいっぺん調べてみる必要がある。

 この仏像は民間人に払い下げられ、それをさらに小折の女性が譲り受け、いまは大仏殿に祭られている。甚目寺の釈迦院には“おそそさま”が祭られ、こちらには“おほほさま”と呼ばれる神石がある。この石は昭和37年、大仏殿の境内から偶然に掘り出されたものだそうな。

●9月8日 「おほほさま」の背後にあるもの

 「おそそさま」と「おほほさま」――。「おほほさま」はいま大仏の脇に祭られ、前には見えないように布が掛けられている。石の形は女性のナニにそっくりで、思わず「おほほ」と笑えてきそう(だが、本来は「おそそさま」と呼ばれていたのかもしれない)。

 本尊をもらい受けたとき、これとセットになっていたとか。地元のある人は「(譲り受けて開基となった女性は)あまりにも似ているのに仰天し、打ち震えながら地中深く埋められたのではないか」と推察していた。

 甚目寺の釈迦院も、真清田神社の般若院も、占いや除霊などをする尼僧たちのいる“霊場”だった。庶民は本堂や本殿にお参りし、こちらにも足を運んだ。むしろそれ以上に、生身の仏である尼僧たちのお告げに関心があったのではないのか。

 明治までは神も仏もいっしょだった。いろいろある権現はまさにそれで、仏が神となって“権(かり)に現れる”ものと考えられていた。廃仏毀釈は中国の文化大革命にも似て多くの文化財までを破壊してしまったが、江南の地に立派な本尊と「おほほさま」が守り伝えられてきたケースはめずらしく、そしてまた、その背後にあった尼僧たちの“活躍”ぶりを伝えるものとしても貴重であり興味深い。

 

 


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