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■新撰雛形・工匠技術之懐

『新撰雛形・工匠技術之懐』解説
       古文書に親しむ会講師 鬼 頭 勝 之

 本書を刊行した意図について、著者の河合信次氏は跋文で以下のように記す。

 
  復刻に使用した和本
 「我家既に数百年の久しきに渉り、其伝ふ所の図書は座右に堆積したりと雖も、不幸にして屡々為有に罹り、古法の以て見るべきものなし、仮令自家の典籍は汗牛充棟するあるも、漸く佳境に到れば、巻中口伝秘訣に譲りたれば、初学者流をして望洋の思ひをなさしめんとす、

 故に予は遍く神社・宮殿を歴験し、新様は其粧飾の美に過たるを観じ、又其構造の朴質に失たるを悟り、華を抜き、華を摘み、始て穏当・幽粋なる者を蒐集し、以て初学者流の階梯となし、只古様旧流に偏倚せざるに在るなり、

 予が此篇を著する以所の主意は不幸にして女あり男なく、其自得せる所の学術も伝ふべきの子弟なし、故に悉く予が積年の所学所見聞を記述し(以下略)」

 要約すれば出版の動機は、河合家が数百年の歴史ある宮大工の家であるのに自分で断絶すること、そのため伝統と自得する所を初学者に示そうと自ら諸国の社宮殿を歴訪し、華美を去ることが本来の神社美であることを再認識し、初学者の入門篇としたというのである。

 しかし、本書の冒頭に榎本武揚が「法に依り、変を尽くす」という書を寄せていることから、本書出版のもう一つの事情が浮かび上がってくる。

 武揚の年譜を見ると、
  明治14年5月7日  皇居造営掛
  明治15年5月27日  皇居造営事務副総裁
  同年8月12日    駐清特命全権大使、皇居造営事務副総裁被免

 そして、本書の出版が
  明治14年12月19日 板権免許
  明治15年3月    出版  となっている。

 この二つの事実を重ね合わせると、明治新宮殿の造営が浮かび上がってくる。

 
  榎本武揚の寄せた書(一部)
 明治21年10月に完成した明治宮殿の中心的役割を果たしたのが木子清敬(きこきよよし)である。木子家は先祖代々宮中の修理職棟梁の家柄であった。東京遷都後、宮内省に入り、明治14年、皇居造営掛を命ぜられている。現在、木子家の文書は東京都立中央図書館に寄贈されている(木子文庫)。

 その目録によれば、本書を出版した河合氏の関係文書が全73点(図面37点・雛形36点)収められている。跋文で述べているように、家の断絶で木子に寄託されたものと思われるが、そのうちに明治22年の木子清敬の絵図・書類の借用書が存在することである。

 つまり、木子と河合とは生前につながりがあり、榎本との関係を考えると、明治新宮殿の神殿(賢所)の建設に一定の役割を果たしていたと思われる。

 これを傍証すると思われるのが、前掲木子文庫に明治新宮殿の賢所に関する図面が57件残されていることである。内訳は賢所・神嘉殿・霊明殿・神殿・鳥居・八神等である。

 ここで河合氏が一定の役割を果たし、その成果が本書でもあり、榎本氏の書とも連動する由縁と思われる。

 また、河合氏が述べているように、伊勢の内宮・外宮を「唯一神明造」と別格化する復古的潮流の中で、熱田神宮も同格だとする角田忠行の一連の行動も見逃せない。この時期、神仏習合の江戸から脱却し、神の純粋化により天皇制に直結する試みがなされる。伊勢における建物の配置も江戸時代とは異なる。ここに角田の伊勢・熱田同格論が出てきたのである。

 彼は幕末の尊王攘夷の過激派であった。その彼が明治10年、熱田大神宮大宮司に任ぜられるや、政権に知り合いが多く、角田の同格論に賛成する者が出てきた。その後、以下のような経過になった。

 明治13年1月 宮内卿徳大寺実則に「熱田神宮御改造趣意書」上申(伊勢と同様の建物の配置にする等)
 明治22年 宮内・内務両大臣に建白書を提出(内容は前回同様)
 明治23年11月 伊勢祭主久邇宮朝彦親王が天皇への不可の奏上

 明治24年5月、以下の決定がなされた。
  一 内宮・外宮の称号は用ゐざる事
  一 正殿高欄に据玉は置かざる事
  一 東西宝殿は正殿の左右に置く事
  一 蕃垣御門は設けざる事
  一 中重鳥居周辺の八重榊は用ゐざる事
  一 御饌殿、四丈殿、五丈殿は改称する事
  一 荒祭宮の称号は相止め、単に一之御前と称する事
  一 神嘉殿の名称を改称する事
            (片仮名表記を平仮名に改めた)

 完全に角田の野望(伊勢=熱田)は敗北したのである。ここに伊勢神宮が唯一神明造の名称を独占し、天皇制との一体化を確立した。

 そして、上記の禁止事項は逆に伊勢の独自性を示すものであり、例えば明治22年の遷宮に、内宮の建物は近世の神仏習合化の正殿の左右に宝殿が並ぶ江戸の形態から、古代様式の正殿の北側に宝殿がくる形態に変更されたのである。これが今日、我々が見る伊勢内宮の姿である。

 そして、熱田には江戸様式を要求した。これは神道思想からでなく、単に角田に対する報復以外のなにものでもない。

 この明治22年は明治憲法発布の年である。まさにその日に、キリスト教を信仰する文部大臣森有礼が、神宮参拝の際の一神官の謀略による、不敬行為があったというデマによって、暗殺されたことは注目に値する。

 また、「正殿高欄に据玉(すえだま)は置かざる事」は、純粋化する中でも陰陽道・道教に由来することが排除できなかった点で興味深い。据玉は正殿の正面の階(きざはし)両側の組高欄から続く、簀子(すのこ)縁の周囲を回る高欄上の飾り金物である。それが陰陽道に由来する赤・青・白・黄・黒の5色になっている。

 この点は本書の「神明鳥居之図 但外宮」でも鳥居の柱が八角形になっていて、陰陽道の影響を受けた吉田神道が外宮に浸透していたことが理解される。

 また、榎本を批判した福沢諭吉の明治24年の「瘠我慢(やせがまん)の説」によって、本書を推薦する榎本を探ることができる。これは福沢が興津(静岡)の清見寺で咸臨丸の犠牲者の慰霊碑「壮士」の裏に刻まれた「食人之食者 死人之事」(人の食を食(は)む者は、人の事に死す)の榎本の書を見て触発された論である。

 この文は『史記』の「淮陰侯列伝」の韓信の格言を利用した発言「人の車に乗る者は、人の患いを載せ、人の衣を衣る者は、人の憂いを懐き、人の食を食む者は、人の事に死す」によっている。これに福沢は怒りを感じたのである。加茂儀一氏の適切な要約を以下に引用する。

 「勝(海舟)に対しては幕府瓦解のさい雄藩を相手に城を枕に討死するこそ瘠我慢の本領なるに、戦わずして敵と和を講じ憐みを乞い、しかも新政府において名利の地位あるに至っては、武士の風上にもおかれぬもので、勝はよろしく栄爵を辞し、利禄をすて世をすてるのが瘠我慢のしどころであり、それでこそ世人も彼の誠心を知りてその清操に服することになるのである。

 勝に比すると榎本は政府軍に反抗しただけそれだけ意気地があったとはいえ、箱館戦争後許されて官につき、ついには栄達して大臣にまでなり、富貴を得ているのはやはり彼に武士の情がないからである。榎本は、箱館戦争で戦死あるいは戦傷をうけて世に埋もれてしまった人々のことを考えて、よろしくその富貴を去り世捨人になるだけの瘠我慢がなくてはならない」

 政治家(虚言家)勝は論外であるが、榎本は弁護に値すると思われる。文久2年(1862)オランダに出発し、慶応2年(1866)帰国した、超エリートの彼を時代が必要としていたのである。

 森鴎外の小説『舞姫』の主人公がエリスとの決別を決意するのも、明治近代国家の知的エリートへの国家的要請を肌に感じていたからなのである。山縣有朋をモデルにした天方(あまかた)伯爵が「君が学問こそわが測り知る所ならね、語学のみにて世の用には足りなむ」と主人公に述べる場面があるが、これは榎本にも適用できるのである。

 一例をあげればペテルブルグで隕石から作られた星鉄剣を見て、彼自身、流星刀を造らせ、『流星刀記事』を執筆しているのである。つまり、彼は実学の人であった。『舞姫』に喩えればエリスが幕府と言えよう。

 「事に死す」は福沢の指摘するように、幕府に殉ずる意となるのが正当だが、ここを榎本は国家に殉ずると読み替えたのだ。加茂儀一氏が著書の副題に「明治日本の隠れたる礎石」と名付けたように、鉱山・炭鉱の開発、石鹸の製法の本まで翻訳するのである。そんな実学者の彼の一面が本書の推薦でも窺える。

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