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■温知政要

宗春主義―『温知政要』とその背景

 享保14年(1729)8月、20男の宗春は奥州梁川の藩主になった。このとき、すでに34歳。一生、部屋住みで終わるかも……とあきらめかけていたころなので、3万石とはいえ、そのトップに立てたことは幸運と言わねばなるまい。

 江戸にあった宗春は遠い梁川の地に思いを馳せながら、理想の政治とは何かについてしきりに考えていた。部屋に閉じこもって思索し、紙に何事かを書き付け、破ってはまた書く。施政方針を練る、そんな日々が続いていた。

 ところが翌15年、兄である尾張六代藩主継友(つぐとも)が急死、思いがけなくもその座が回ってくることになった。3石から62万石、諸大名の中でも筆頭の大大名に。まさに青天の霹靂(へきれき)とはこのことである。

 宗春は尾張に向けて書き改めることにしたが、筆を持つ手にいよいよ力が入ってきた。尾張藩お抱えの儒学者深田慎斎(しんさい)の協力も得た。出来上がったものは『論語』の「温故知新」にちなみ『温知政要』と名付けられた。

 当時、藩主自らがその政策を表明し、しかも本にして配るなどは前例もない。しかも、その内容は「慈悲」と「忍耐」を基本に、思いやりのある政治を目指す、と表明している。現代なら当たり前のことかもしれないが、この時代にあっては画期的なものだ。

 宗春は吉原通いで遊びほうけていたが、その合間をぬって陰でちゃんと勉強もしていた。その師と仰いだのが“江戸のドンキホーテ”儒学者の荻生徂来(おぎゅうそらい)で、『温知政要』にもその思想が色濃くにじみ出ている。人の能力について徂来は「米は米なりに、豆は豆なりに」と言っているが、宗春もまた「松には松の用あり、桧には桧の用あり」と書く。

 享保16年4月、宗春初めてのお国入りである。これに先立ち、本は藩の主だった者たちに手渡された。そのころの尾張は藩主の相次ぐ死で打ち沈み、将軍の座を紀州に奪われて不平不満が渦巻いていた。

 そうしたところへ新ビジョンを掲げてさっそうと登場したのだから、人々の期待はいやが上にも盛り上がった。藩士たちは本を読んで涙し、まるで宗春が希望の星のように見えてくる。その辺の事情を十分考慮に入れての演出は心憎いほどでもある。

 早くも部外者の中から注目する人が現れた。京都の儒学・者中村平五は自分が書いた本と類似する点があまりにも多いのに驚き、『温知政要』を「後代不易の教書」「一期の受用、其の値千金に宛つべし」と激賞している。

 平五の子供が名古屋で生まれているせいか、早くも配布の始まったその年に入手していたのだろう。後に彼は『温知政要輔翼』を著すことになるが、どういうわけか宗春の相談役にもなっていた深田慎斎が校訂している。

 山岳信仰の一つ、富士講は江戸を中心に商人や職人、農民の間で広まった。江戸の商人伊藤伊兵衛は富士信仰にとりつかれ、食行身禄(じきぎょうみろく)と名乗って“富士講中興の祖”となった人。享保18年、その彼が吉宗の強権政治に反発、「世直し」に富士で断食して果てるが、その直前、生家の伊勢へ帰る途中、名古屋で『温知政要』と巡り会い、「この人こそ国主にふさわしい」と感激している。

 ところが、宗春の失脚とともに本は回収・棄却され、いま残っているのはごくわずか。配布された範囲は150石以上の奉行役あたりまでと推測され、それも一度にではなく数度にわたって広く行われたものと思われる。それなのにきわめて少ないのは、失脚後、回収がいかに徹底して行われたかを物語るものでもある。

 では、この『温知政要』にはどんなことが書かれていたのか。宗春は分かりやすい表現に苦心しているが、その文章ですら現在のわれわれには難しすぎる。ここでは影印と翻刻、それに現代文による「超訳」も加え、その全文を紹介することにしよう。使用した原本は名古屋市・蓬左文庫のものである。

 

 


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