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■冥加普請と小田井人足

『御冥加普請の記』とそこからから思い付いたこと

大野木村で行われた「御冥加普請」とは
 4月1日付で新川みのじ会編『御冥加普請の記并図』を出した。名古屋市鶴舞中央図書館にある同名の本を翻刻したもので、B5判・60頁の小冊子を200部製作した(税込み1575円)。翻刻に当たっては古文書を教えてもらっている鬼頭勝之先生に大変お世話になった。

 以前、これと同じ和本が古書展に出たことがある。8万円の売価が付けられていたが、その後に出品されないところを見ると、すぐに売れたのであろう。それにしても「よくこんなのがあったなあ」と感心したものである。

 『御冥加普請の記并図』(以後は単に『御冥加普請の記』と略す)は非常にめずらしく、また、興味深い本と言える。『庄内川流域史』に一部が紹介されている程度で、その内容は一般にはあまり知られていない。今回、出版した本は原文を右頁に、翻刻を左頁に配しており、収集マニアというのなら話は別だが、書かれている中身を知りたい人には8万円以上の価値がある(?)。

 この本の魅力の一つは「并図」とあるように、本文の内容を絵でも紹介していることだ。その画者がだれかは不明だが、まずまずの出来映えである。これが一種の“絵解き”にもなっている。

 『広辞苑』によると「冥加」とは「(1)知らず知らずのうちに神仏の加護をこうむること。目に見えぬ神仏の助力(2)お礼」などとある。「冥加金」の言葉もあるが、本来のそれは神仏へ謝礼として差し出す金のことだった。これがやがては特権を与えられた商人らのお上へする献金の意味になり、さらには財政難に陥った幕府や藩が取り立てる上納金をも指すようになった。

 ここで言う「冥加普請」とは本来的な意味で用いられており、自ら進んで参加した堤防補強活動を言う。同書の中では「自普請」という言葉も使われている。今風に言えば「ボランティア」による工事とでも言えようか。

 時は天明3年(1783)秋のことである。降り続く雨に庄内川の堤防が大野木村(名古屋市西区)で切れそうになった。役人が人夫を指揮して必死に防ごうとするが、すでに決壊寸前にまで追い込まれていた。

 ところがそのとき、降りしきっていた雨が急にやみ、雲間から太陽が顔をのぞかせた。居合わせた一同は天の恵みとばかり仕事に励み、ついに堤防を守り切ったのである。実に危ないところだった。

 風雨が治まった背後には、心配した藩主が熱田神宮に晴天を祈願させていた事実が明らかになった。これを知った村人らは感謝の気持ちから、自発的に堤防を築くことにした。川底の土砂を一鍬(くわ)ずつでもすくい、それで堤防を強化していこうというのだ。

 リーダーに押切村(同)の一東利助がなり、“鍬初め”は同年の12月4日とされた。当日、大野木堤には周辺の村々をはじめ、各地から2000人を超える人々が集まってきた。これには尾張藩も酒や肴を振る舞うなどして励まし、官民一体による空前の土木工事となったのである。

 このときの藩主こそ、後に「尾張藩中興の祖」と言われ、「明公」と諡(おくりな)される九代徳川宗睦(むねちか)である。『御冥加普請の記』はこの前後の出来事を詳しく記述している。そして、ここで見られた下からの盛り上がりはこの工事だけにとどまらなかったものとみられる。

 この付近の庄内川は小田井川と呼ばれることもあった。大野木に続いて下流に上小田井・中小田井・下小田井がある。いま公園となっている庄内緑地(中小田井)も万が一の洪水時に備え、一時的に水をためる遊水池とされていたところであった。


「小田井人足」発祥の地を探る
 名古屋弁に「小田井人足」という言葉がある。子供のころ、祖母などに連れられて畑仕事によくかり出されたものだが、遊んでばかりいると「小田井人足」「小田井人足」と皮肉られた。いまではあまり聞かれなくなったものの、名古屋人はこの言葉で働き者に“教育”されてきたのである。

 小田井人足の意味は働く格好はしていても、その実、ちっとも働かない人のことを言う。「せっかく頼んだのに、今度の庭師さんはえりゃー小田井人足だにゃーか」「しゃべくるばっかで、手がうげぇーとれせんでかんわ」。こんなことを言われたりしたら、次の仕事はもう入ってこない。

 この言葉の由来は大水になると名古屋の城下を守るため、対岸の堤防を切らせようとしたこととされている。作業に駆り出される小田井の農民たちはたまったものではない。家や屋敷、田畑が水浸しになるのを避けようと、働く格好だけをして自然に減水してゆくのを待ったというのである。

 これは冥加普請で見せた働きぶりとはまったく異なるものだ。そして、堤防を切らせたという記録をいまだに見かけたことがない。もしもそのようなことをしたら、そこを給地とする武士だって黙ってはいまい。

 それどころか為政者はいつの時代も領地を水害から守るのに必死だった。それこそが任務とも言える。『御冥加普請の記』でも次のように書かれた一節がある。

 「若(もし)此堤切入ときハ三郡へも水はびこり、田畑作毛の損亡ハいふに不及、民家も水底となり、人命にも拘(かかわ)るべき故、精力を尽し防ぐといへども、風雨あらく目口をうちて、人夫も働事(はたらくこと)かたく、しばしの止間(やみま)もなく、いつ晴べしとも見えざれバ、終(つい)にハ堤崩れて切入ぬべし、傷(いた)はしき事なれども、天災力に及ばず」

 この文章からも分かるように、いかに城下を守るためとはいえ、対岸の堤防を切らせたとは考えにくい。ここでも雨の中を総出で、懸命に働いている。これが為政者として当たり前の姿なのだろう。

 それにもかかわらず「小田井人足」という言葉は生まれている。そして、多くの人がこれを使い、なまけることへの戒めとしてきた。これはどう考えからよいのだろうか。

 思い当たったのは水害から城下を守るため、名古屋側(左岸)の堤防を強化していたはずだ。これには対岸にある小田井の農民も駆り出されたことだろう。左岸側が強化されるということは相対的に右岸側が弱体化することを意味し、彼らの中にはサボタージュする者もあったのかもしれない。

 そうした彼らの仕事ぶりを周りの者が「小田井人足」とからかうようになったのではないか。これなら分かるし、あり得ない話ではない。「小田井人足」なる言葉の発祥の地は彼らの住む右岸側ではなく、対岸の左岸側だったと見るのが妥当のように思えてくる。

 庄内川も木曽川に似て、一種の御囲い堤のようなものだ。洪水を防ぐために堤防を補強するのは当然だが、城下のある右岸側がより強化されている。事実、右岸の小田井側はしばしば決壊し、その度ごとに大きな被害を受けていたのである。


冥加普請が庄内川分流工事に発展したか
 冥加普請で見せた士民のパワーは素晴らしいものだった。翌4年に庄内川右岸の堤防を切って「洗堰(あらいぜき)」とし、分流するための新川が開削されることになった。周辺28カ村の村人らが普請奉行の水野千之右衛門に率いられ、わずか3年で日本一長い人工河川を切り開いたのである。

 洗堰と新川による分流はいまに生き続けている。新川中橋北側の下流(右岸)堤防は約70メートルにわたって低くなっており(堤防の高さの半分ほどを切り落とし、洪水時には外へ水が流れ出るようにした)、車を走らせていても下がっていてはっきりと体感することができる。先の東海豪雨で新川が決壊したが、ここからの流入も原因の一つにあげられたほどだった。

 「御冥加普請でうみゃーこといったがや。今度は木曽三川の分流工事みてゃーなのをみんなでやろみゃーか。当時はそういう熱気がみなぎっていたと思うんですよ。それをうまく活用したのが宗睦公ではなかったのでしょうか」

 こう語るのは新川みのじ会世話役の根本憲生さん。地元では「御岳山を目指して、どんどん掘れ」との伝承も残されているそうだ。新川は直線を主体とした「く」の字形の人工河川で、確かにその向こうに御岳山を望遠することができる。

 新川の開削も一種の冥加普請と言うことができるかもしれない。新しい河川を引くとなると、水利権や洪水など様々な問題もからんでくる。それらを封じ込めたのが下からの熱気と、当時としては驚異的とも言える速い工期だったのではないか。

 実は新川がどうやって造られたかははっきりしていない。同会では根本さんを中心にして『新川開削物語』(仮題)を編集する予定でいた。そのために集めていた資料が先の豪雨で水に浸かってしまったが、いずれは形にしてみたいとの思いはいまもあるようだ。

 宗睦は拙著『将軍毒殺』で悪いところを垣間見せてしまった。しかし、その後は緊縮財政や人材登用などで善政を敷き、河川改修などでも多くの実績を残している。『御冥加普請の記』に見られるよう、民衆の力を活用したやり方もまた注目に値する。

 今回出版した本には鬼頭さんによる「一東利助の謎」と題した解説も付けられている。この人の実像もほとんど知られていない。『御冥加普請の記』はその利助が寛政4年(1792)に「後世の人をして御仁恵の浅からざるをしらしめんと」(序文)の目的で書き残したものであった。

 

 


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